聴き直しの効用

 現代ギリシャ語の聴き直しが終わったので、次はカタルーニャ語の聴き直し。
 エクスプレスシリーズなどの短い教材を聴き直すのは、言語の知識や感覚を維持するのには良い方法のような気がする。Assimilなどのボリュームがある教材は、そう気楽に聴き直せない。その言語にはちょっとご無沙汰だな、という時に短い会話教材があると助かる。
 音読が楽なくらいに発音の感覚が残っていると、ほとんど単語を忘れてしまっている場合でも一つハードルが低くなる気がする(感覚が残っている、ということは本当に基礎的な文法機能を担った語やその振る舞い方は覚えている、ということだからだろう)。多言語学習で大切なことである。
 私は自分の記憶力に全く自信はないのである。だから聴覚印象をなるべく保って、後は必要に応じて覚え直す、という段取りでやっている。これがベスト、と言う気はないが、自分には合っている方法である。

やっと纏まる。

 校閲講座のための旧仮名資料は何とかまとまりそうだ。
 ちょっと苦労した。実用的なものにしたいと思ったので、そんなに深い内容ではないかもしれないが、使う人の便利を考えて作るのも結構大変なのである。おかげで腕の筋肉もちょっと痛めてしまったし、なんでここまでやっているのだろうと、ふと思ったりしたが、とにかくまとまったので一段落である。
 そんな折、本屋で『日本語全史』(沖森卓也著・ちくま新書)というのを見つけて購入。まだ読み始めだが、日本語全体の流れをコンパクトに(と言っても400ページ以上あるのだが)まとめていて、面白そうである。自分も正確に日本語の通時的変化を心得ているわけではないので、いい勉強になりそうだ。
 他の言語も徐々に調べを終えて入れ替わりが出来そうなものがあるが、最後がなかなか進まない。最後が一番難しいパーツであることが多いのでやむを得ない。あせらないでやろう。

言葉との付き合い方を

 まだ腕は治りきってはいないけれども、かなり良くなって来たのでブログを更新することにする。
 この間にAssimilのクロアチア語コースの調べを終えた。これは中欧旅行(チェコ・ハンガリー・オーストリア)のだいぶ前から始めていたものなので、3年近くかかったことになる。少しずつしか進められないので仕方ないとはいえ、ずいぶん掛かったものである。ちょっとボリュームのありすぎる教材なのだ。
 同じシリーズのブルガリア語コースを購入。買うのはあっという間だ。買うだけじゃ駄目なんだよね。やらないと。
 校閲講座で「オリンピック賛歌」の原詩の解説をして、曲を聴いてもらうという試みを行った。校閲というと日本語の細かい間違いの話がメインになりがちで、どうも狭苦しい感じになるので、今後は外国語や言語学的な話も挟もうと思っている。校閲という狭い範囲だけでなく、「言葉」というものとの付き合い方を考えられるようなものにしていけたら、というのが今のところの希望である。
 これくらいにしておこう。次回の更新は腕の状態次第、ということで。

しばしお休み

 キーボードを叩きすぎて、腕の筋肉が悲鳴を上げてしまいました。
 資料の作成は大変です。
 というわけで、腕の状態が戻るまで、更新はおあずけです。
 学習は切り替わりの時期に来ていて、そのことも書こうかと思っていましたが、まあそれは後ほど。

思ったより大変

 アラビア語方言シリーズは最後のアルジェリア方言に移る。
 これはリンガフォンにかつてあったコースで、フランスの植民地だったアルジェリアのアラビア語方言が、どうしてイギリスの語学教材であるリンガフォンの中に入ったのかその理由はわからない。ともかくしっかりしたコースなので、すこし腰を据えて聴こう。元はレコードだった教材である。ずいぶん長いことお蔵入りだったがやっと陽の目を見る。
 ウクライナ語も聴き終わるので、こんどは再復習の現代ギリシャ語。主だった各国公用語は、時々簡単なものを聴き直さないと次に必要になった時のウォーミングアップが大変なので、ご無沙汰だなと思った時にこういう復習シリーズを挟むことにしている。
 旧仮名遣いの説明のための日本語動詞活用の整理はまだ続いている。思ったよりもはるかに大変である。それにしても「国文法」と称されるものには不可解な点が散見される。前回述べた「来る」(古語は「来(く)」)のみならず、「す(る)」、「ふ〔経〕」、「ぬ〔寝〕」、「う〔得〕」なども語幹無し、ということになっているようなのだ。「ぬ」と「ふ」などは活用表では「尋ぬ」とか「答ふ」などで代用されていて(少なくとも私の手元の辞書では)、「語幹無し」という事実がなるべく表に出ないように配慮しているような感じすら受けてしまう。もっとも国文法の本を渉猟したわけではないので、きちんと示しているものもあるだろうとは思うけれども。
 とにかく「語幹」の無い動詞が少なくとも5つある、というのは大変な事態である。素人としては「これでよいのか?」とつい考えてしまうのだが。
 というわけで、ちょっと自分なりに考えてみた結果、「単子音語幹」と「ゼロ語幹」というものを設定してはどうかという考えに至った。単子音語幹は「く」「す」「ふ」「ぬ」の4つで、それぞれ語幹はk-、s-、h-、n-である。ゼロ語幹は「う」1語のみ。これは言語学でその要素が欠落している時の記号φ-で示す。日本語の動詞の終止形はuで終わるので、「語幹がゼロ」ならばφ-+u→[u]しかあり得ない理屈である。活用形はφ-+u-→「う-」とφ-+e→「え-」の2種類の形を取る。「え(ず)、え(て)、う、うる(とき)、うれ(ども)、えよ」。単子音語幹もこれに準じて考える(活用形はそれぞれの型に従う)。
 その他は従来の活用表と同じにする。いたずらに全てをローマ字表記にはしない。これは実用性(日本人にとっての)のためである。理論のための理論では実用には供せないからである。
 こんな考えで、ああでもないこうでもないと整理しているので大変なのである。出来上がりはいつになるだろうか。校閲を教える助けになってくれれば有り難いけれども。

(追記)
 書き忘れたが、活用表にはその他にも「語幹無し」とされる動詞がある。「射る」「居る」「煮る」「干(ひ)る」など。しかしこれらは、「る」の前の部分を語幹とし、未然形・連用形の活用変化部分をゼロ(-φ-)とすれば「-φ-、-φ-、-る、-る、-れ、-よ」という活用で整理できる。現代語の活用も未然形・連用形の活用変化部分をゼロ(-φ-)とすれば、上一段・下一段の活用は簡略化できるのではないかと考えているのだが、詳しく検討していないので決定的なことは言えない。また活用表があまりに代わってしまうと、現行の辞書が使いづらくなってしまうので、それとの整合性を実際には考えなくてはならない。そこら辺の落しどころが難しいのである。文法は考えだすと面白いけれども、まとめるのは難しい。しかし聖典のように一字一句変えてはならないというものではないのだ。こういう風に考えるのは自由だし、むしろ言葉への認識を深めることになるのだと思う。
プロフィール

井上孝夫

Author:井上孝夫
多言語の学習・研究、多言語読書を長年続けています。著書に新潮新書『世界中の言語を楽しく学ぶ』『その日本語、ヨロシイですか?』あり。マンガ・イラストの別ブログ「スケッチ貯金箱」もやっています。

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