まだ見ぬ言語たち

ずいぶんあれこれと言語を齧り散らした気がするが、
まだ勉強していない言語は、それはいくらでもある。
○○ヶ国語勉強した、などという数字は本当はどうでもよい。
思いもかけぬ姿かたちの言語が、まだどれほどあるのか、
そしてそれらはどのようなものなのか、の方が
多言語学習にとっては意味がある。
まだ、中国国内の少数民族の言語は、勉強し残したのがたくさんある。
北米の先住民の言語も、手付かずだ。
コーカサスの言語や、アフリカの、かなりの話者数を持つ言語でも
やってないのがたくさんある。
言語数ではない。バリエーションの豊富さの方が重要だ。
いろいろな言語を勉強し始めた学生の頃の
あの知的な興奮を味わう機会が、あとどれくらいあるのだろう、と
残された時間や体力を考えると、少し淋しい気もする。
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テーマ : 言語学・言語論
ジャンル : 学問・文化・芸術

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No title

中国語の方言(と言っていいのかわかりませんが)はいかがですか?今までに、広東語と台湾語(ホーロー語)をちょっとかじりましたが、数年前に誘われて「客家語教室」に参加したことがあります。

先生は台湾の花蓮付近の出身。客家語は各地に散らばっているので、バリエーションが多く、標準語があるわけでもありません。いわば先生の出身地限定の客家語を習ったわけです。

先生の友人の同じく台湾の客家人の方が、「私の土地ではそうは言わない」という点も多々あって、驚かされました。お互いに「変な言い方で気持ち悪いので、会話するときは中国語(マンダリン)を使う」のだそうです。客家人同士なのに。

こういう言語もあることを考えると、言語の数は無限ですね。

数えられませんよね。

仰る通りです。
沖縄などでも、一つ山を越えれば方言がずいぶん違うそうですし、ニューギニアなども同じ調子で、おびただしい数の言語が存在します。元来、言語にそんなに明快な区切りは存在しません。
数じゃなくてヴァリエーションだ、と言ったのはそういう意味で、○○カ国語知っている、とか話せる、というのは、文献を読めるとかビジネスに役立てるという意味では評価すべきことでしょうが、人間が世界を理解する術としての「言語」を広く知るうえでは、必ずしもその「数」が言語一般への理解度に比例はしない、と思うのです。
私が一番重要視するのは、やはり言語の普遍的側面なので(この点が多くの人と違っているのでしょうが)、いかにこの世界を違う言語が違った風にとらえるのか、また、それにもかかわらず普遍的に共通するものは何なのか、そのあたりを「感じ取りたい」からこそ、文学作品なども読んでいるわけです。
ぽてこさんの積極性も、そういった世界への扉に通じているような気がします。
プロフィール

井上孝夫

Author:井上孝夫
多言語の学習・研究、多言語読書を長年続けています。著書に新潮新書『世界中の言語を楽しく学ぶ』『その日本語、ヨロシイですか?』あり。マンガ・イラストの別ブログ「スケッチ貯金箱」もやっています。

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