造語する時

言葉の意味は、言語の構造によって規定される、
ということが構造主義言語学以来、よく主張される。
言語によって、物の見方は変わる、とも。
では人間の意識や思考は、言語の奴隷のようなものなのだろうか。
しかしそれなら、一旦固まった言語体系から、
人の意識は決して抜け出せないことになる。
新しい表現や言葉は生まれる余地がない。
やはりそれは違うだろう。
というのは、最近、自分で「この観念を言葉にしたいが、
適当な表現がない」ということがあったからである。
こういう時、人は「造語」したくなるのだろうな、という経験である。
どういうことかと言うと、
「どんなに高級な服を買って着ても、その人が着ると安物のようにしか見えない」
という場合、「その人は服を○○する」と表現したかったのだが、
これに当たる適当な動詞がどうしても思いつかず、
ああこれは、その観念を表わす言葉が無いのだ、と気づいた。
それなら造語しよう。
服を「着○○」という形にしたい。
「着倒す」というのはどうか。いや、「食い倒れ」とか「着倒れ」という言葉はあり、
ちょっとニュアンスは違うか。
それでは「着のめす」というのは?「着て、その服の価値を叩きのめす」という感じ。
でも、ちょっと不自然できつずぎるかもしれない。
「着下げる」ではどうだろう。
「彼は服を着下げる人だ。」
逆に安物の服でも上等品のように見せるなら、
「彼女は服を着上げるセンスがある。」
まあ私の造語センスでは、これぐらいしか考え付かないが、
その才のある人が考えれば、新しい言葉が一つ増えることになるのだろう。
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テーマ : 言語学・言語論
ジャンル : 学問・文化・芸術

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プロフィール

井上孝夫

Author:井上孝夫
多言語の学習・研究、多言語読書を長年続けています。著書に新潮新書『世界中の言語を楽しく学ぶ』『その日本語、ヨロシイですか?』あり。マンガ・イラストの別ブログ「スケッチ貯金箱」もやっています。

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