『ムクドリと百一天使』 3

 《彼女の本当の名前はマラグラツィア・アイェッロ。あだ名がポポネ。アイェッロ家の人は皆、代々、なぜかそう呼ばれているの。
 根っからの善人で、かわいそうにいつも目を伏せていた。口をつぐんで。自分の持ち物も自分のものじゃなくて。息子のために身ぐるみ剥がされて、居させてくれる場所に居て。空気にさえ迷惑をかけないように。
 ところが嫁ときたら、名前はマリッキアっていうんだけど、いやがらせに次ぐいやがらせよ。朝から晩まで。面の皮が厚くてね、何にも顔を赤らめたりしないし、おまけに口うるさいし、怖いもの知らずだし。
 怖いもの知らずの女ほど、手に負えないものはないよ。
 マリッキアは田舎の他の女みたいに、小さなマントは着なかった。父親が職工だって言ってたから。レース入りで房飾りのついたウールの大きなマントを着て、「おばさん」じゃなくって「奥様」って呼ばれたがっていた。
 ポポネは何も言わなかった。息子も我慢していたし。でもあれはちょっとばかりバカ息子だったね。もし私の息子だったら! うんざりだ。
 かわいそうなポポネ。どんなに苦しんだことか!
 六十歳で──見せたかったね──白髪が一本も無かった。蝋(ろう)でできた、とても清潔な少女のようで、髪はふさふさしていて、十五歳の娘よりみずみずしい肌だった。貧乏な女の例にもれず、山羊の毛の服を着ていたわ。でもどんな上着を着ても、絹のように見えた。振る舞いがとても美しくて、どこか嗜(たしな)みがあったの。彼女が通るのを見た人は、みんな道を譲ったものよ。あの人の手を覚えてるわ。なんてか細かったこと! タマネギの薄皮みたいだった。それなのに、あの手を働かせ詰めだったんだから!
 もちろん、嫁は彼女のためにお金を使っていた。なにしろ、息子のためにこの世の全財産を譲ったんだからね。レ・フォルナチの下にある、小さな家と小さな囲い地よ。ポポネはまだ人に頼らず生きていた。何マイルも遠くから、彼女に会いに家まで来る人のために、九日間の祈りやロザリオの祈りを唱えながらね。彼女は、夜中に交感する煉獄の聖なる魂たちから、祈りによって感謝の念を受け取っていた。それで報われていたのね。
 その証明は毎日目にすることができたわ。
 或る時──私には目に浮かぶように分るけど──一人の貧しい母親が、アメリカに行ったきり手紙もよこさない息子のことで、彼女の所へ来たの。
 「明日もう一度きなさい。」──ポポネは言った。
翌日、その母親にこう告げた。息子さんが手紙を書かないのは、もう家路についているからよ。そして、もうジェノヴァに着いているから、幾日もしないうちに、彼を抱きしめることができるだろう、って。
その通りになった。ごらんなさい、こう言っただけで、今でもぞくっとしてくるわ。聖女よ! 聖女なの! ポポネはまさに聖女だった。
 「でも、百一天使の奇蹟っていうのは?」セバスティアーノ・テリッリが尋ねた。
 「はいはい、今話しますよ。」ドンナ・ジェーザは答えた。嫁の意地悪から少し逃れてほっとしようと、ある日ポポネは、近くにあるファヴァーラの村に何週間か行ってこようと考えたの。そこには彼女と同じく未亡人の妹がいたからね。
 息子に申し出て許可を得ると、近所の人の名付け親でリージ小父さんっていう人の所へ行った。それは年取った小さなロバを一頭借りるためで、そいつは少し頑固だけど、亀みたいに物静かなロバだった。
 ポポネにはよく分かってた。リージ小父さんは断りゃしない。そのロバを小父さんがどんなに愛していて、そのロバが、朝、いつもの手桶一杯の水を飲まないだけで、一日中気を揉んでしまうほどだった、としても。このリージ小父さんってのは、好奇心の強い人でね。このロバのことじゃ、近所の人たちは皆、小父さんの悪口を言ってた。毎朝、ロバの鼻先に両手で手桶を抱えて、さあ飲め、というふうに一、二時間、何度も何度も口笛を吹くんだよ。それで近所の女たちが、その哀れっぽくてしつこい口笛に苛立って、もうやめてくれって小父さんにどなりつけたら大騒ぎさ。
 ポポネと同じやもめだからね、リージは何年も前から、一緒になりたくてつきまとってたんだよ。
 「黙っていて、お願い!」──ポポネはリージに向かって、声を上げて、そして十字を切った。なぜって、それは悪魔の誘惑に思えたから。
 その日、彼女は砂利敷きの庭の前で待っていた。そこにリージは家と家畜小屋を持っていたの。彼が口笛を吹き終わるのを、彼女はしばらく待っていたけれど、その間も近所の女たちは、中へ入れと彼女をけしかけていた。──ほら、ほら、入れば口笛をやめるんだから!
 ついに老人は口笛をやめ、ポポネは中庭に入った。
(つづく)
スポンサーサイト

テーマ : イタリア語
ジャンル : 学問・文化・芸術

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

井上孝夫

Author:井上孝夫
多言語の学習・研究、多言語読書を長年続けています。著書に新潮新書『世界中の言語を楽しく学ぶ』『その日本語、ヨロシイですか?』あり。マンガ・イラストの別ブログ「スケッチ貯金箱」もやっています。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード