現場用語というもの

 現場用語というものについて、考えてみたい。
 どの業界でも専門用語というものがある。それを生業(なりわい)とする以上わきまえておくべき言葉、というのが一般的理解だろうが、よく考えてみるとその中にも性質の異なるものがあることに気付く。
 一つ目は、広くその業界に共通用語として広まっていて、どこへいっても使われる用語。これは説明不要だろう。
 二つ目は、各現場で別の表現が用いられている場合。専門用語の方言みたいなものである。
 出版界にもそういうものがある。
 先日、私の勤める出版社の校閲部がテレビで紹介され、その中で「めくり合わせ」という現場用語が使われた。これは初校ゲラ(原稿を印刷所で組み上げた〔打ち込んだ〕第一バージョン)へ筆者が入れた赤字訂正が、再校ゲラ(第二バージョン)のゲラできちんと直っているか確認する時に、初校ゲラと再校ゲラを重ね合わせて上の初校ゲラをパタパタと繰り返しめくって、下の再校ゲラとの間の異同を確認する、という作業。言ってみれば二コマだけのパラパラ漫画みたいなもので、直しの無い(少ない)部分が変更されていないことを確かめるためにするものである。もし変わっている部分があると、チカチカと目に入って来て分かるのである(基本的にはいじっていない部分のデータは変わっていないという信頼の下、念のためにやる作業なので、勝手に変化しているというのは例外的な事故)。たくさん直しの入ったところはゲラを左右に分けて置き、きちんと照合をする。
 この「めくり合わせ」という用語は、実は人為的に選択して部内用語としたものである。以前私がそこの長だった時に、新人用マニュアルを作るためにどうしてもその用語を決める必要があったからである。当時これを何と呼ぶのか決まっていなかった。「パタパタ」と言う人もいたし、「あおり検査」と呼んでいた校正プロダクションもあった。しかし「めくり合わせ」と呼んでいた人もいたのである。私は「めくり合わせ」を取った。作業用語としてもっともニュートラルな響きがしたからである。まさかテレビで紹介されるとは思ってもいなかった。
 ちなみに私が入社した40年前、まだ活版が主流だったころ、この「めくり合わせ」はしていなかったように記憶している。活版の活字は時に誤って崩してしまい、直しの入っていないところが微妙に変わってしまう確率が高かったので、原稿照合ほどではなくとも、ざっと合わせるような感じでやっていたと記憶している。昔のことなので記憶がいささか怪しいが。電算写植が普及してから定着した方式ではなかったか。
 さて、「めくり合わせ」のように人為的用語ではないにしても、現場用語というものは現場の人間が了解できればよいのであって、べつに「出版現場用語委員会」というものが存在するわけではないから、会社によって違ったりする。時折それで意志疎通ができないことも、ある。
 ドラマで話題になった「重版出来(じゅうはんしゅったい)」にしても、「じゅうはんでき」と呼んでいた人はいた。現に営業部の人はそう呼んでいた(間接的に聞いた話)。あのドラマでは「重版が決定した」という意味合いで使われていたが、広告などで「重版出来」とある場合は、「重版が出来上がって、店頭に並びました。買ってください。」といったニュアンスを含む表現ではなかったろうか。ちょっとニュアンスが違う気がする。
 最後になったが、三つめは「専門用語」と呼ばれているが、実際にはもう使われなくなっている語。「?」を「耳だれ」、「!」を「雨だれ」と呼ぶ、というのは常識のように言われるけれど、実際に私の周りで使っているのを聞いたことはない。40年間聞いたことが無いのだから、私の周囲では死語である。
 恐らく、推測だが、これは活版印刷の時代、もう時間が無い時の訂正を電話口で口頭で印刷所に伝える場合などに誤りを防ぐために用いられたのではないだろうか。週刊誌などではガラ刷りという印刷直前のゲラを点検した際にこの電話による口頭の訂正をやったものである。目の前にゲラがあるなら、「感嘆符」「ビックリマーク」「エクスクラメーション(マーク)」や「疑問符」「はてなマーク」で沢山である。わざわざ「耳だれ」「雨だれ」と言う必要はないのである。
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Re: No title

さわき様

返事遅れました。
たまたま出版関係のドラマが続いたので、ちょっと考えてみる気になりました。
よく考えてみると、業界用語というのはほとんど自然成立したものではないでしょうか。
いちいち協議して決める、というのは考えにくいですから。
当然栄枯盛衰があって、死語も存在するはずです。でも調べるのが難しいでしょうね。
面白いテーマだと思います。



> 専門語に興味があるので、「業界用語」のエントリーは私にとってはありがたいです。
> いつも気になっているのは、経営統合をしたときに細かな違いをどうやって処理するかです。最近も大きなコンビニが経営統合しました。
> 用語集を作ってコミュニケーションがきちんと取れるようにしているところもあるでしょうが、大抵は出たとこ勝負で違いが分かったときに気が付くんだろうと思います。
> 経営統合がなければ、会社による違いがあっても困らないものです。
> 現代は地域差による方言より会社や業種による方言のほうが多いんじゃないでしょうか。
プロフィール

井上孝夫

Author:井上孝夫
多言語の学習・研究、多言語読書を長年続けています。著書に新潮新書『世界中の言語を楽しく学ぶ』『その日本語、ヨロシイですか?』あり。マンガ・イラストの別ブログ「スケッチ貯金箱」もやっています。

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