校閲という仕事のこと

10月から日本テレビで「校閲ガール」というドラマが始まります。
私は40年間校閲の仕事をやっているので、校閲がドラマで取り上げられるなど隔世の感がしていささか感慨に浸ってしまうのですが、一方で校閲の仕事が正しく伝わるのだろうか、という懸念も無くはないのです。
40年前、校閲部に入った頃は、まるでそこは「文学青年崩れ」とでも言えそうな屈折した人や、「生活のために」この仕事をしているに過ぎないとでも言いたげな大人の集団だ、と感じられました(こちらも若かったから過剰にそう感じたのかもしれませんけれども)。
校閲部の立場も弱かったので、細かいことは述べませんけれども、校閲部も編集部と同じように出版活動を行う上での対等なパートナーとして扱ってもらいたいものだ、というのが若い部員たちの無言の目標になっていたような気がします。
現在では多少なりとも存在価値を認めてもらっているのかなとは思いますが、努力をやめたらたちまち昔と同じか、それ以下に落ちてしまうだろうとは承知しています。
存在価値は、証明し続けなくてはならないのです。
さてドラマ回りの情報で、校閲は「日本語の正否を判定する人間」みたいに取られているのは、少し気になります。日本語表現が正しいか否かを裁く権威者みたいにステレオタイプ化して描かれるのは、「ちょっと違うんだけどな」と正直思いますね。
このあたりのことは、拙著『その日本語、ヨロシイですか?』(新潮社刊)で詳しく述べましたので、校閲に興味を持たれた方は覗いていただけたらと思います。この本は、いわゆる日本語本のようなタイトルですが、実は校閲の仕事に付いて分かりやすく、ストーリー漫画も交えて描いていますので、興味のある方には役に立つのではないかと思います。少し宣伝になってしまいましたね、すみません。
それと、日本の新作小説だけが校閲の対象ではなく、ノンフィクション物や図版物(写真集やムック類など)、翻訳小説(原著者と訳者という二人の筆者がいて、外国語が絡んで来る)や、翻訳のノンフィクション(海外情報の調べも必要)など、毛色の違う仕事も守備範囲になりますので、実際の仕事の広がりから言うと、新作小説の校閲というのはその一部に過ぎないと言えるわけです。
実際、ノンフィクション物など、時には段ボールに溢れんばかりの資料を持ち込まれて、付箋だらけの本のどこに確認すべき記述があるのか茫然としながら探したり、明治時代の新聞との照合をしたり、資料室に籠って何時間も調べ物をする、などというのはよくある事です。
しかしいくら調べ物をしても「これが正しいのだから直せ」などとは校閲者は口にすべきではないのです。それはモラルです。決めるのは筆者です。作品はあくまでも筆者のもので、我々はそれを手助けしているに過ぎないのだ、というのは肝に銘じなくてはなりません。本はあくまでも筆者の名誉と責任(文責)において上梓すべきものですから。
こういう縁の下の力持ち的な仕事は、出版業でなくともたくさんあるでしょう。そういう目立たぬ仕事こそが、実は社会を支えているのだ、とも言えます。交通機関を使っても事故に遭わない、食べ物を食べても腹をこわさない、建物が潰れて命を失うことはない、こういう安心できる社会というのは、こういう目立たぬ仕事がきちんと成されてこそ成り立つのである、ということを忘れてはいけないでしょう。
校閲だけが「地味ですごい」のではない。他の仕事にも敬意を持ち続けたいものです。
スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

井上孝夫

Author:井上孝夫
多言語の学習・研究、多言語読書を長年続けています。著書に新潮新書『世界中の言語を楽しく学ぶ』『その日本語、ヨロシイですか?』あり。マンガ・イラストの別ブログ「スケッチ貯金箱」もやっています。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード