美文調と言語的性向

 人間が言語を習得するのは、フレーズとそれが使われる状況をセットとして記憶することが基本となっているのではないか、といったことを以前考えた。似たようなことを書いたこともあったかもしれない。
 各種の類似した状況と、そこで使われる似通ったフレーズを比較することによって。自発的に文法的解析が始まる。それによって、具体的語彙とは別に文法的語彙・形態が抽出され、活用や曲用、語順や構文、語形成その他抽象的な文法的要素を導き出し、それらを操作するようになる。
 こんな風に人間が言葉を覚えていくのだとして、それは今まで社会が構成員に共通の形として認めてきた言語を習得するプロセスであろう。
 一方、そのような言語、言ってみれば「ありもの」としての器の言語に盛り切れない新しい概念やニュアンスなどを表す「言語の改変」としての変化は、どのようにして起こるのか。
 それは文法その他の「誤解」による変化かもしれないし、あるいはもっと積極的に新しい観念に言語を合わせていく、ということもあるかもしれない。

 どうしてこんなことを書いているかというと、偶然「一天にわかに掻き曇り」という慣用句的な表現が頭に浮かび、この聞き慣れてはいるが、むやみに冗長な表現(「天が急に曇り」で意味は充分伝わるはず)をかつて好んで使っていた人たちはどういう言語意識を持っていたのだろう、と考えたからである。言葉を変えると「美文調」を好む、というのは、どういう言語的性向によるものなのか。
 もしかすると、こういう傾向は、言語を、私が最初に述べた「フレーズと状況」をセットにして記憶することに長けた人が陥りがちなものなのではないか。
 二つ目に述べた「文法的分析」に長じた人は、論理的・文法的構成にこだわる。この場合、重心が論理に移りがちで、一読して意味がとりづらい文章を書いたりする場合が多かったりする。
 とすると、三つ目の、新しい「表現」を言語に与えたい人はどのように文章を書くか。つまり個的・私的な感性を言語に刻み込みたい人は、どのようにしてそれを遂行するのか。
 考えてみると、これは「いかに真に文学的表現を生み出すか」という問いと同じなのかもしれない。社会の共通の器を使いながら、なおかつ個人の影をそこに刻み込む。大変困難な作業である。

 まだ考えたばかりでうまく纏まらないけれど、文学と言語学・文法との本当に具体的な関連についてはあまり読んだことがないので、稚拙かもしれないが、とりあえずの思考をここにメモしておいた。
スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

井上孝夫

Author:井上孝夫
多言語の学習・研究、多言語読書を長年続けています。著書に新潮新書『世界中の言語を楽しく学ぶ』『その日本語、ヨロシイですか?』あり。マンガ・イラストの別ブログ「スケッチ貯金箱」もやっています。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード