膠着語、屈折語と簡単に言うけれど

 言語の形態的類型論で「膠着語」という分類があり、日本語もこれに属する、という定説がある。大筋間違いではないとは思うが、そもそもこの「膠着語」という分類概念が、一般的に信じられているほど明快なものではないのではないか、とこのごろ思うようになってきた。
 というのも、現在苦心惨憺して初歩的文法を学んでいる(というより手探りで理解しようとしている)シュメール語が同様に「典型的な屈折語」として分類されている記述を目にし、ウラル語族・アルタイ語族とも関係があるのではないかという説もあると聞いては、「そうかなあ、うーん……」と唸らないわけに行かないからだ。
 今、入門書に示されている例文などを見ると、シュメール語の場合、動詞に付く接辞というのは大方動詞の前に長々と連なる性質があるように見える。一般的に「膠着語」として例示されるトルコ語や朝鮮語、日本語やモンゴル語、またフィンランド語やハンガリー語などはこの逆で、一部例外はあっても、多く動詞の後ろに連なる性質がある。この違いというのは、実感としてかなり大きなもので、これを一括りに「膠着語」という分類に押し込めてよいのだろうかと感じるのである。「膠着語」という名称の由来を考えれば確かに前と後ろの違いに過ぎない、膠でくっ付けるように、核となる語に接辞が付いているのだから同じ分類でよい、ということになるのだろう。
 しかし、言語の線的性質(前から後ろの一方向に不可逆的に進む)を考えれば、この前後の違いは意外と本質的な違いかもしれないのである。
 シュメール語みたいな接辞の付き方をする他の言語があるだろうかと考えてみると、グルジア語に行き当った。グルジア語も動詞の本体の前に多くの接辞が付く(後にも多少付くが)。まったく関連がないとは言えないかもしれない。私の知識ではこれ以上は何とも言えないが、少なくともこういうタイプの言語は、日本語のようなグループとは別に分類してもよいのではないか(屈折語のサブグループとしてでもよいが)。スワヒリ語などのバントゥー語族もこれに近いかもしれない。
 ついでに言うと、スペインやフランスの一部で話されるバスク語は、この一群の接辞群が動詞本体と切り離されて、文の大まかな構造を示すものとなり、複雑な変化(構成要素も抜き出せないほど一体化してしまった助動詞としての変化)をするようになっている。
 私は詳しくないが抱合語と呼ばれる言語(ナワトル語などを多少齧ったことはあるが)は、恐らくこの接辞群+動詞のグループ(1語を形成する)に、名詞その他の別の核となる語までも潜り込んでしまうのであろうと思う。もうこうなると殆ど短文に近いのではないかと思うが、やはり1語なのである。たぶんこの形成の仕方にもある種のパターンと限度があり、ネイティヴ・スピーカーはその種々の組み合わせを、パターンとして身に付けているのであろうと想像する。上記のシュメール語やグルジア語、バスク語などの母語話者も同様である(だった)と考えられる。ネイティヴでない人間が身に付けるのは大変だろう。

「膠着語」と同様、「屈折語」も曖昧だ。印欧語族のように、接辞の多くが動詞の後に付く「分かりやすい」屈折と、アラビア語のように、語頭・語尾にも接辞が付くのみならず、中心になる動詞部分もその核となる3子音を保持しつつかなりの変化をする、などという複雑な形態を持つ「分かりにくい」屈折がある。
アラビア語以外でも、タガログ語などは文中の主題となる要素(主語、目的語のみならず、副詞的要素である場所、道具、受益者、理由なども)によって動詞が異なる活用をする。(例:Bilhan mo ang bata' ng sapatos.〔その子供のために靴を買え。〕biliは「買う」、bilhanはその変化形(受益者に焦点が当たる時の形)。moは「あなた(主語ではない形)」。bata'は「子供」、sapatosは「靴」。ngは目的語であることを示し、angは主題であることを示す。)
こう見てくると、構文の分類として用いられるS、V、Oの組み合わせによる分類もちょっと怪しくなってくる。なぜならこの分類には、主語、動詞、目的語以外は付随的要素に過ぎない、という前提があるからであり、これではタガログ語などの動詞変化を説明しにくくなるからである。
こうした分類法は、大まかに言語を俯瞰するときにはある程度有効であるが、あまりこれに頼って比較論をするのは危険だろう。やはり言語そのものをよく知ったうえで行わなくてはならないだろう。
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No title

記事内で使われているタガログ語の例文は少々不適切かもしれません。
「その店でパンを買え」は
Bumili ka ng tinapay sa tindahan.
です。
Bilihan mo ng tinapay ang tindahan.
だと「お店にパンを買ってあげなさい」になってしまいます。
この場合の「bilihan」は「買ってあげる」に相当します。
また、場所に焦点が当たる時の変化形として「Bilihan」が使われることもありますが(例:Bilihan ng tinapay.〔パンの売店〕)記事中の例文はそれに当てはまりません。

No title

ご指摘ありがとうございます。
タガログ語をご専門になさっているのでしょうか。
そういう方からの指摘が最も信頼できます。
そこで『言語学大辞典』のタガログ語の記述の中から例文を探しました。似たような内容のものですが、叙述の流れから言えば、この例文でも趣旨を汲んでもらえるのではないかと思いますが、いかがでしょうか。
今後も貴重なご意見を伺えれば幸いです。
プロフィール

井上孝夫

Author:井上孝夫
多言語の学習・研究、多言語読書を長年続けています。著書に新潮新書『世界中の言語を楽しく学ぶ』『その日本語、ヨロシイですか?』あり。マンガ・イラストの別ブログ「スケッチ貯金箱」もやっています。

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