翻訳『サン・ジュゼッペのロバの話』ジョヴァンニ・ヴェルガ作 その2

 一方ネーリおじさんは、ロバを曳いて坂を下りながら言っていた。
 「神はなんと正しきお方だ。奴から子ロバを分捕ってやったぞ! 色なんか問題じゃない。見てみろよ、この柱のような脚! 目をつぶっていたって、こいつが四十リラの値打ちがあるのは分かるさ。」
 「もし俺がいなければ、」友人は答えた。「どうにもならなかったんだからな。ここに、お前さんの二リラ半がまだ残ってる。よかったら、ロバの健康を祝して乾杯しに行こうぜ。」
 今や子ロバはその値段三十二リラ半と食べた藁の金を稼ぐために、健康でいなくてはならない破目になった。だがその間(かん)、ロバはネーリおじさんの後ろで熱心に飛び跳ね、たわむれにおじさんの上着に嚙み付こうとしていた。まるでそれが新しい主人の上着だと分かっている上に、これまでぬくぬくと母親のそばで暮らしていた家畜小屋を永遠に後にしても平気だとでも言うように。母のそばで子ロバは、飼葉桶の縁に鼻面をこすりつけたり、雄羊相手に頭突きをかましたりデングリ返しを売ったり、豚を小屋の隅っこで突っついたりしていたのだ。薬屋の売り台の前で改めて金勘定をしていた女主人も、子ロバが生まれた時、絹のようにつやつやした白と黒の毛並みで、まだ両足で体を支えられず庭にしゃがんでいるのを見たことや、ロバが食べて大きく育った草のことなど、すっかり忘れていた。ただ一つ覚えているのは、雌ロバが家畜小屋の出口に向かって首を伸ばして鳴いていたことだ。しかし雌ロバも、乳房が乳で脹れることがなくなると、子ロバのことを忘れてしまったのだった。
 「こいつは」とネーリおじさんは言う、「ラバと比べて、スペルト小麦の山四つ分は多く運んでくれるぞ。収穫の次期になったら、脱穀をさせるさ。」
 脱穀をする時期になると、子ロバは、老いたラバや足の悪い馬など他の家畜と一緒に並んで首を繋がれ、朝から晩まで麦穂の束の上をちょこちょこ歩いては、疲れ果てて、日陰で休ませるために藁の山に載せられても、その藁に食いつく気も失っていた。その間も、かすかな風が立ち、農夫たちは藁を払い除けながらこう叫んでいた。「マリア様万歳(ヴィーヴァ・マリーア)!」
 そんな時、子ロバは鼻先を下げて耳をぶらりとさせ、大人のロバのように生気のない眼で、まるでだだっ広く白い広場を見るのも飽きたという風情だった。この広場は麦打ち場の埃があちこちに煙のように立ち、さながら喉の渇きをつのらせて、麦穂の束の上をせかせかと歩かせるためにだけ作られた場所のようだった。夕べには、子ロバは一杯になった振り分け荷物を背にして村へ帰った。主人の息子はひっきりなしに子ロバの背峰(両肩の間の背の隆起)を突っつきながら、小道の垣根に沿って歩いて行った。その垣根はシジュウカラの囀りと、イヌハッカとローズマリーの匂いで生気が漲っていて、子ロバは、ずっと速足で歩かせてもらえないのなら、せめてその中に口を突っ込みたいと思った。すると脚に血が下りてきて、子ロバは蹄鉄工の所へ運ばれなければならなくなるのだった。だが主人にはそんなことはどうでもよかった。なぜなら収穫は上々だったし、子ロバは三十二リラ半分を働いた。主人は言った。「もう仕事は済んだ。こいつを又、二十リラで売っても、まだ儲けものだ。」
 子ロバを愛しているのは、麦打ち場から帰る時、ロバを小道沿いにぴょんぴょん跳ねながら走らせてくれる少年だけだった。蹄鉄工が子ロバの足を真っ赤な鉄で焼き、子ロバが身をよじり、尻尾を宙に浮かせ、市の開かれる広場を駆け回る時みたいに耳を立て、体をくねらせて、撚り合わせた太い綱が唇を締め付けるのから逃れようとしている間、少年は泣いていた。そして蹄鉄工の弟子が火のような赤い鉄を替えに来て、革がフライパンに入れた魚のようにジュウジュウと煙を立てた時には、判決を受けてでもいるように、苦痛に目を剥いた。しかしネーリおじさんは少年に叫ぶのだった。「馬鹿者が! なぜ泣く? こいつの仕事は終わったんだ。収穫もうまくいったし、だからこいつを売って、ラバを買う。その方がいいんだ。」
 少年というものはある種の事柄を理解しないものである。子ロバが農園主のチリーノ・イル・リコディアーノに売られてしまった後も、ネーリおじさんの息子は家畜小屋を訪れ、子ロバ鼻面や首を撫でまわしていた。なぜなら子ロバが振り向いて彼の匂いを嗅ごうとし、まるでその心はまだ彼と繋がっているとでもいう風だったからである。一方大人のロバは主人が望む所に行き、小屋を替えるように運命を変えている。農園主チリーノ・イル・リコディアーノはサン・ジュゼッペのロバをわずかな金で買ったが、それというのもロバにはまだ踵(あくと)(ひづめとくるぶしの間)に瘢痕があったせいだった。ネーリおじさんの奥さんはロバが新しい主人と一緒に通るのを見て言った。「あのロバは私たちの運命(さだめ)だったわ。白と黒の毛並で麦打ち場に陽気さを運んでくるの。でも今、一年の収穫はどんどん減ってるし、だからラバまで売らなきゃならなくなって。」
 農園主チリーノはロバを犂(すき)の軛(くびき)に繋げ、指輪に嵌め込まれた宝石みたいに軛にぴったりはまっている老いた雌馬と一緒にした。雌馬は一日中何マイルも、きれいな畝溝を引いて行くのだった。ヒバリが明け方の白い空でさえずり始めてから、コマドリが裸の低木の後ろに身を縮め、寒さに震えて、短く飛び回るかと思うと、物悲しいピィという声で海のように立ち昇る霧の中で鳴く時まで。ただ子ロバは雌馬より小さかったので、軛の下、鞍の上に藁の小さなクッションを置いてやった。子ロバは寒さで固くなった土塊を剝がそうと、何度も躍起になって肩を動かしていた。「こいつのおかげで、年寄りの馬の力を使わんで済む。」農園主チリーノは言う。「サン・ジュゼッペのロバは、カターニア平野のような広い心を持っているんだ! まかり間違っても……」
そしてマントの中で背を丸め、種を節約して播きながら後ろについてくる妻に向かってこう言った。
「もしこいつに災難が降りかかったら、いやそんなのは駄目だ! 破滅だ! 収穫を前にして。」
女は取り入れを控えた収穫物を見守り続けた。石ころだらけの、荒れ果てたちっぽけな畑。土は白く、久しく雨も降らずにひび割れ、水は霧となって畑にもたらされるものの、その霧が種を蝕むのであった。鍬入れの頃になると、蒔いた種は悪魔のヒゲのようになり、まるでマッチで燃やしたかのようにまばらで、黄ばんでしまった。「あんなに畑を休ませておいたのに!」農園主チリーノは、上着を脱ぎ捨ててすすり泣いた。「あの子ロバは、ラバと同じようにわしらの息の根を止めた! あれは不作を招くロバだ!」
彼の妻は、焼け焦げた種を目の前にして胸が詰まった。そして目から涙をぽろぽろと流しながら答えた。
「子ロバは何もしていないわ。ネーリのおじさんには良い収穫をもたらしたわけだし。私たちは不運だったのよ。」
こうしてサン・ジュゼッペのロバがもう一度主人を替えたのは、農園主チリーノが種を蒔いた畑から鎌を背にして帰る時のことだった。畑は刈り取る必要もなかった。聖人たちの絵を葦の茎に刺して置いておいたのに。そして二タリー(タリーはシチリアで流通していた古代アラブ金貨)払って司祭に神の加護を祈ってもらったというのに。「くそいまいましい!」チリーノは羽毛の房のようにまっすぐ突っ立った、ロバも欲しがらない麦の穂を見て毒づいていた。雨の降る気配も全く見えない真っ青な空に向かって唾を吐いた。その時馬車引きのおやじルチアーノが、空っぽの背負い袋を載せたロバを引いて来た農園主チリーノを見かけて尋ねた。
 「サン・ジュゼッペのロバにいくら払って欲しいかね?」
 「お望みの額で。ロバと、こいつを作った聖人に呪いあれ!」チリーノは答えた。「俺たちには食べるパンも、家畜にやる大麦も無い!」
 「十五リラ払おう、お前さんたち、食い詰めてることだしな。しかしこのロバ、それほどの価値は無いぞ。この痩せ方はどうだ!」
 「もっと要求出来たのに!」農園主チリーノの妻は、交渉が成立した後で愚痴を言った。「ルチアーノのおっさんの所は、雌ラバが死んだの。でも別のラバを買うお金はない。今サン・ジュゼッペのロバを買わなかったら、車と商売道具をどうしたらいいかわからなかったのよ。でもあのサン・ジュゼッペのロバは財産になるんだわ!」
(つづく)
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プロフィール

井上孝夫

Author:井上孝夫
多言語の学習・研究、多言語読書を長年続けています。著書に新潮新書『世界中の言語を楽しく学ぶ』『その日本語、ヨロシイですか?』あり。マンガ・イラストの別ブログ「スケッチ貯金箱」もやっています。

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