翻訳『サン・ジュゼッペのロバの話』ジョヴァンニ・ヴェルガ作 その1

 先日ジョヴァンニ・ヴェルガの作品をしばらく読まないだろう、と言った舌の根も乾かぬうちに、なんとその短編を訳してみよう、という気になった。経緯は省略させていただくが、そういう気になった時は素直にその気持ちに従った方がいいと思ったので、彼の短編集から、あるロバにまつわる物語を訳してみた。訳した後で気が付いたのだが、これは岩波文庫の『カヴァレリーア・ルスティカーナ』というヴェルガの短編選に入っていたのだった(私は未読)。そちらでは「聖ヨセフの驢馬の物語.」という邦題になっている。しかし私は「サン・ジュゼッペのロバの話」というタイトルにした。もちろん聖ヨセフ=サン・ジュゼッペ、なのだが、シチリアの土着性を表すにはイタリア語の響きの方がふさわしいと思ったためである。そしてこれは優れた作品だ、と訳してみて思った。あまり語っては興醒めなので前置きはこれくらいにしておく。ブログとしては長くなるので、三回に分けて掲載する(そう間を置かずに更新するつもり)。翻訳は大変だけれど楽しいものでもある。




サン・ジュゼッペのロバの話

ジョヴァンニ・ヴェルガ 作
井上孝夫 訳


 そのロバはまだ小さいやつをブッケリの市で買ったのだが、そいつは雌ロバを見ればすぐに乳房を探しに行くものだから、頭突きを食らったり背中をめった打ちにされる破目になり、皆から「シッシッ(アッリッカ)!」とどやしつけられるのだった。ネーリおじさんは、そのロバが生きが良くて意地っ張りで、ぶたれた鼻面を舐め舐め、耳を振っているのを見て言った。「こいつはわしの出番だな」。そしておじさんはまっすぐロバの持ち主の所へ、ポケットの中に三十五リラ握りしめたまま向かった。
 「そいつはいいロバだ。」ロバの主人は言った。「三十五リラよりもっと値打ちはある。分かるかね、そのカササギみたいな白と黒の毛並み。ではそいつの母親も見せてやろう。林の中にいるんだ、何しろ子ロバが年中おっぱいを吸いに頭をくっつけてくるもんだから。どうだい、この黒みがかったきれいな奴は! こいつはラバより働き者でね、毛の生えてない子供をたくさん産んでくれたんだ。正直な話ね、どうして白黒の毛がその子ロバに生えたのか分からんよ。だが骨格はしっかりしとるよ、本当だぞ! まあ、人間の場合はヒゲで価値が決まるわけじゃないがな。その胸を見てくれ! それと柱みたいに頑丈な足! 耳の立派さはどうだね! そんな風な耳をしたロバは車を曳かせてよし、犂を引かせてよし、お望み通りだ。小麦の山を運ばせることもできる、ラバより上手に、今日みたいな日に、一日中。この尻尾の感じはどうだね、お前さんの親類一同全員がぶら下がれるくらいだぞ!」
 ネーリおじさんは、そんなことは主人より分かっていたが、その通りですねと言うほど馬鹿ではなかった。独りポケットに手を突っ込んだまま、肩をすくめ、鼻にしわを寄せて立っていた。その間も主人はおじさんの前で子ロバをぐるぐる歩き回らせている。
 「うーん!」ネーリおじさんはつぶやく。「その毛並み、サン・ジュゼッペのロバ(値打ちのないロバのこと。サン・ジュゼッペは聖ヨハネ)みたいな毛並みじゃなあ! そういう色の家畜はみんな臆病者で、そんなのに跨って村を歩き回った日にゃ、目の前で皆に大笑いされるぞ。サン・ジュゼッペのロバと引き換えに何を進呈したらいいのかね?」
 主人は猛烈に起こって背を向け、怒鳴るのだった。家畜のことをよく知らんのなら、そして買う金がないのなら、市になど来るな。こんな神聖な日に、キリスト教徒の時間を無駄遣いさせるんじゃない。
 ネーリおじさんは主人がわめくに任せて、兄と一緒に立ち去った。兄はおじさんの上っ張りの袖を引っ張りながら言う。あのしょうもない畜生のために金をはたいたりしたら蹴っ飛ばすぞ。
 しかし、おじさんはひそかに、サン・ジュゼッペのロバを見失わないようにしていたし、その主人のことも見ていた。主人は青いソラマメの皮を剥いているふりをしていたが、端綱のロープを両足の間にしっかり挟んでいた。一方ネーリおじさんは、あのラバこの馬と多くの尻の間をぶらつきながら、立ち止まってそれらを見つめたり、より良い役畜を得ようとあれこれ値段の交渉をしていた。しかし三十五リラを握ったままポケットに突っこんだ拳を開くことはなかった。まるで市の半分を買うために持っているんだとでも言うように。ところが兄の方が耳元で、サン・ジュゼッペのロバを指さして言うのだった。
 「あれは俺たちのものだ。」
 ロバの主人の女房は、売れ行きを見ようと時折駆け寄って来ていたが、亭主がまだロープを手に持っているのを見ると、こう言った。
「聖母さまは今日、まだ子ロバの買い手を遣わしてくれないの?」
亭主はそのつどこう答えた。
 「まだ何も! 交渉した奴が一人いて、こいつを気に入ってたんだが。金は使わず、持って行っちまった。あいつさ、白い鍔(つば)なし帽の、羊の群れの後ろにいる男。だがあいつは今のところ何も買っていない。つまり、戻ってくるってことだ。」
 女房はロバのそばに二人並んで座り、売れるかどうか見たいものだと思った。しかし夫は彼女に言ったのだ。
 「あっちへ行ってろ! 待ってるところを見られたら、商売がまとまらん。」
 その間も、子ロバは通りかかる雌ロバたちの足の間を鼻面でまさぐろうと必死だった。お腹が空いていたのだ。それで主人は、子ロバが鳴こうと口を開けかけるや、棒でひっぱたいて黙らせるのだった。そんな声、誰も聞きたくないからな。
 「あいつ、まだあそこにいるな。」ネーリおじさんは兄貴の耳にささやいて、炒りヒヨコ豆売りを探しに戻って行くような振りをした。「夕べのお祈りまで待てば、こちらの言い値より五リラ安く買えるぞ。」
 五月の太陽は暖かく、それで時折、市場の喧騒や人込みの只中で、広場全体に静寂が生まれるのであった。まるでもう誰もいないかのように。そこでロバの女主人は夫のところにやって来て言った。
 「五リラ多いか少ないかで、意地を張らないで。今夜は買い物が出来ないわ。五リラなんて、一ヵ月経てば子エサ代でパアなのよ、ロバは何にもしないでのらくらしているだけでさ。」
 「あっちへ行かなけりゃ、」亭主は言う。「ケツに一発蹴りをお見舞いするぞ!」
 こうして市での時間は過ぎて行った。しかしサン・ジュゼッペのロバの前を通る人の誰一人として、立ち止まってそれを見ようとする者はいなかった。そして主人は最も控えめな場所、安い家畜のそばを選んでいた。そこなら栗毛のラバや光り輝くような馬のそばにカササギの毛並をしたロバを置いていても恥をかかずに済むからだ。見たら誰でもが笑い出すようなサン・ジュゼッペのロバの売り買いの話をまとめるには、ネーリおじさんのような人が必要なのだった。子ロバは日向でずっと待ち続けたせいで、頭と耳をだらりと垂れ下がらせていた。そして主人は悲しそうに石の上に腰を下ろし、こちらも手を両足の間にぶらりと下げて、あちらこちらと目をやっては、沈み始めた太陽のせいで広場に長く伸び始めた影と、売れ残ってしまった家畜たちの足を見ていた。
 そこでネーリおじさんと兄は、この場に備えて声をかけておいた友人一人を連れて、あらぬ方向を見つめながらそこを通りかかったが、ロバの主人の方は待っているのを悟られぬために首をひねったのである。そこでネーリの友人は目をぎょろつかせて、いかにもある考えが浮かんだとでもいうようにこう言った。
 「おい見ろよ、サン・ジュゼッペのロバじゃないか! ネーリの小父(おっ)さん、なぜこいつを買わないんだね?」
 「今朝目にしてはいたんだが、高すぎてね。それにこの白と黒のロバを見られたら人に笑われるからな。ご覧のとおり、ここまで誰も欲しがらなかったわけだし!」
 「そりゃそうだが、役に立てば色なんかどうだっていいさ。」
 そして主人に尋ねた。
 「サン・ジュゼッペのロバを買うには、いくら払わなくちゃならんのかね?」
 サン・ジュゼッペのロバの女主人は、交渉が再開されたのを見て、マントの下で両手を合わせながらそっと近づいて来た。
 「言わないでくれ!」ネーリおじさんは広場の方へ逃げながら叫び出した。「言わないでくれ、そんな話は聞きたくない!」
 「聞きたくないって言うんなら、ほっとけ。」主人は言う。「奴が買わないのなら、別の奴が買うさ。『市が終わって売る物が無くなる売り手は、こすっからい奴!』って言うしな。」
 「俺は話を聞いてほしいんだよ、こん畜生!」友人はわめいた。「俺だってたわごとを言いたいのに、言えないじゃないか!」
 そしてネーリおじさんのところへ駆け寄って上着を掴み、今度は踵を返してロバの主人の耳に向かって話しかける。主人は無理にでもロバを連れて家に帰りたがっていたのだが、その首に腕をがばと巻き付けて、ささやく。
 「まあ聞け。五リラ多いだの少ないだの言って、今日売らなかったら、うちの小父(おっ)さんみたいな馬鹿は見つからないぞ。タバコ一本の値打ちも無いお前の家畜を買おうなんていう馬鹿はよ。」
 そしてロバの女主人にまで抱きついて、彼女を味方に付けるため、その耳に向かって話しかけようとしていた。しかし彼女は肩をすくめ、恐ろしい顔をして答えた。
 「うちの亭主の商売よ。あたしは関係ないの。でも正直な話、四十リラ以下で買おうなんて言うなら、そりゃ阿呆だよ! あたしたちから言えば、もっと値は張るんだから!」
 「今朝あいつは三十五リラだって必死で値を付けてたんだぞ!」ネーリおじさんは再び言い張った。「その言い値で誰かほかに買い手がついたか? 市場にはもう皮膚病やみの雄羊が四頭とサン・ジュゼッペのロバしかいないぞ。さあ金が欲しいなら、三十リラでどうだ!」
 「受け取ってよ!」女主人は亭主に向かって涙ながらにそう勧めるのだった。「今晩、買い物も出来ないじゃない。トゥリッドゥは熱がぶり返してるのよ。硫酸塩が必要なんだってば。」
 「くそったれが!」亭主はわめいた。「あっちに行かなけりゃ、ロープを食らわせるぞ!」「三十二リラ半で、さあどうだ!」彼らの襟元を揺さぶりながら、ついに友人は叫んだ。「あんた方も俺も、痛み分けだ! 今回は俺の言うことを聞いてくれ、お願いだ! ワインなんぞ要らん。もう日は暮れてるじゃないか。これ以上何を期待してるんだ?」そして主人の手から端綱をもぎ取っている間に、ネーリおじさんは毒づきながらポケットから三十五リラを掴んだ拳を出して、目を逸らしながら彼らにそれを与えた。まるで肝臓を毟り取られでもするかのように。友人は女主人と共に少しその場を離れ、石の上で金勘定をしていた。一方ロバの主人は市の方へ逃げ去ろうとしていた、わが身を拳で叩きながら。
 だが妻は追いつき、ハンカチの中の金を数え直していた。主人は言った。
 「ちゃんとあるか?」
 「全部あるわ。聖ガエタノ(十五〜十六世紀のイタリアの神学者、修道士)が褒めたたえられますように! さあ薬屋に行くわよ。」
  「連中をだましてやったぞ! 二十リラで売ってもよかったんだ。あの色のロバは臆病者だからな。」
(つづく)
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プロフィール

井上孝夫

Author:井上孝夫
多言語の学習・研究、多言語読書を長年続けています。著書に新潮新書『世界中の言語を楽しく学ぶ』『その日本語、ヨロシイですか?』あり。マンガ・イラストの別ブログ「スケッチ貯金箱」もやっています。

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