語源とは?

「語源」というものは、考えてみると奇妙なものである。
ある日本語の語源、という話になると身を乗り出してくる人が多いようだが、はたしてこの「語源」というものは如何にして確定されるのか、と考えてみるとどんどんあやふやになってくる。
 ある言葉と、それ以前の言葉とが、いかにして繋がっているのか? これを証明することは、実はそう容易くないのである。
 卑近な例をとってみよう。最近「ガチで〜」という言葉をよく耳にする。どうやら「本当に」「まともに」「ものすごく」といった意味らしいのだが、仮にこの語が定着するとして、さてその語源は?という話になるとする。
 私個人の感覚では相撲などの「ガチンコ勝負」という表現から由来しているのでは、と思う(ウィキペディアでもそうなっていた)し、そう説明するのが無難だろうけれど、「本当にそうなのか? 他の語源の可能性は全く無いのか?」と言われると自信は無い。「ガッチリ」などの擬態語と関係があるのでは? などという疑念も無くはないからである。
 厳密に言えば、「ガチンコ」と「ガチで」の確実な繋がりは、初めて「ガチで」と発言した(あるいは書いた)人間の頭の中にしか存在しないのではないか。周囲はこの表現を聞いて(あるいは読んで)、「ああガチンコを、こういう風に変形して使ったのだな。」と思ったであろうが、あるいは「ガッチリを変形させた」と思う人間だっていたかもしれない。あるいはその他の解釈をした人間がいた可能性だって無いとは言えない。語源なんて面倒なことを考えずにただその響きと用法を覚えてそれに倣った、と言う人も多いだろう。
 それにしてもこの言い方が広まった以上、蓋然性として「ガチンコ」が有力な語源候補であることは間違いないだろう。しかし、それを広めた人々一人ひとりの頭の中での繋がりは初めての発話者とは別の話であり、それらの人々の語源意識が「ガチンコ」と結びついているなら、初めての発話者の意識とは別に、そちらこそ「語源」だという定義も可能だろう。
 一体どちらの語源意識が重要なのか? これだけでもかなり厄介な問題だが、そもそも語源意識は記録に残らないものなので、後から検証することは難しい。その結果の発話が文字として文献に残されたり、ここ百数十年では音声記録に残されたりしているが、その結果から正確にその語源意識を確定できるか、と言ったらやはりそう簡単なことではなかろう。多くの場合は、一般人より言語現象に接する機会が多い研究者個人の語源意識が反映されるものではなかろうか。いや、「語源」という観念そのものが、たとえ正確であろうがなかろうが言語現象を腑に落ちるように解釈したいという人間の欲求から出てきているものだ、と言ってもいいのである。
 asparagus(アスパラガス)はギリシャ語ασπαραγος(アスパラゴス)から来ている、というのが定説だが(意味は同じなのでほぼ疑いようが無いと思われる)、これをsparrow-grass(スズメの草)と解釈する語がある(英和辞典にも出ている)。この語を使っている人たちの頭の中では、これこそが語源だという語源意識が働いているのだろう。そしてこの語を何度も口に上らせ生き残らせたのは、まさにその語源意識である。それを民間語源説と呼んで一段低いもののように見るのはおそらく間違いなのだ。古文献の文字と、同時代人の語源意識と、どちらが言語にとって重要なのかは容易には言えないのだと私は考える。

 気楽に語源、と口に出すけれども、それすら実は見極めがたいものなのである。考えだすと、言語は難しい。
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プロフィール

井上孝夫

Author:井上孝夫
多言語の学習・研究、多言語読書を長年続けています。著書に新潮新書『世界中の言語を楽しく学ぶ』『その日本語、ヨロシイですか?』あり。マンガ・イラストの別ブログ「スケッチ貯金箱」もやっています。

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