世界共通語の条件

世界共通語とはどんな言語であるべきか?
ここではこの問題を、言語学的に、客観的に考えてみたいと思う。
現状での言語の勢力図、などというものは考慮しない。
言語として、どのようなものであれば、世界中の人間が
より公平な容易さで(負担を感じずに)習得できるか。

まず言語を音韻、文字、文法、語彙に分けて考える。

音韻(音声の区分、としておく)は
母音・子音ともにバランスのとれた数であること。
極端に母音数、子音数が多かったり少なかったりしないこと。
音韻数が少なすぎれば同音異義語が増える。これは記憶にとって負担となる。
なぜなら同音であれば、それを用法や他の語との組み合わせによって区別せねばならず、
それがかえって難度を増すからである。
音韻数が多すぎれば、音の区別自体に負荷が掛かりすぎる。これもまずい。
経験的に言えば、母音が5~7種くらい。子音は20前後。
各自然言語からみて、少しずつの不都合(日本語話者にとってのlとrの区別とか、
中国語・韓国語話者からみたp,t,kとb,d,gの無声音─有声音の区別とか、
フランス語・イタリア語話者からみたhの発音とか)は、我慢しなくてはならない。
アクセント規則は簡明にすること。

文字は、音声文字。発音と基本的に一対一で対応すること。対応規則をきちんと作ること。アルファベットが現実的だろうが、補助記号(エスペラントのような)は付けない。これはコンピュータのデジタル処理に余計な負荷をかけないためである。文書の保存にとってこれは重要なことである。

文法。まず語形変化を考える。
語形変化には語頭変化、語中変化、語尾変化があるが、
語尾変化を中心にする。
これは、語頭や語中が変化すると、語の原形が推測しにくくなるためである。
語頭が変化すると、そもそも辞書が引けなくなる。
語中変化でも、かなり危ない。
語尾なら、それ以前の形が固まっているから、原形を辿りやすい。
しかし、語尾に過剰に負荷を掛けすぎてもいけない(日本語のような膠着語は
往々にしてその弊害がある。)語尾の仕組みが複雑になりすぎるからである。
例:「食べているときだけでも」は、「食べる」に「~ている」、「とき」、「だけ」、「でも」と次々に接尾辞が重なる。これは膠着語以外の話者には負担である。このような文法機能のいくつかは、別の語として独立させ、語の組み合わせ(フレーズ)として処理するほうが一箇所に負荷を掛けすぎず、得策であろう。
語頭・語中接辞は、派生語をつくる際に使う、ごく少数のものだけにする(反対語、使役・受動あるいは他動詞化や自動詞化など応用範囲の広いもののみ)。
このように文法機能の負荷を分散することが重要である。
中国語などは「変化がないから簡単だ」という人がいるが、俗説である。
語形変化がなければ、その分の文法機能・意味区分を語順に頼って行うことになる。
語形変化が無い分、語順変化やフレーズを覚えなければならない。「隠れ文法」である。これは中国語のみならず、孤立語と呼ばれるグループに共通する性質である。
語形変化と語順・フレーズにかける負荷をバランスよくしなくてはならない。

語彙は、論争になって来た。
エスペラントは西洋語偏重だ、という意見があった。どこからも等距離な語彙を模索した人もいるようだが、失敗したようである。
語彙には、意味との自然な関連など、基本的に無い。
これはソシュールも言っていることである。
だから、語彙は「有り物を利用する」か「理論的に構築する」か、どちらしかない。
後者は、非現実的であろう。意味とは、全てが論理的、とは言えないからだ。一つの言語の語彙体系(構造)が、個々の語の意味を左右することも多いのだ。純粋に論理で構築しようとしても破綻は見えている。
「有り物」を利用するなら、現状から言って、西洋語優位になるのは我慢しなくてはならないだろう。ここで喧嘩していては、世界共通語は永遠の絵空事になる。
ただし、諸国語から語彙を(その世界共通語の音の規則に合わせて)借用することを、あまりに制限しないこと。基本語彙の範疇をきちんとさせておけば、それ以外に目くじらを立てる必要はない。そうしないと人工的すぎて、窮屈なものになる。世界共通語でわざわざ、仲間内でしか理解できないことを言いたい場合だって、人間にはあるだろう。人間というものを理解しなくてはならない。
ただし、語形成は文法的に規則をきちんと作ること。派生辞、語と語の結合などによって誰もが容易に新しい語彙を作れるし理解できるようにすること。

以上のようなことを考えた。この点で言うと、例えば以下の言語の(あくまでも世界共通語としての)問題点はこうなる。
英語→スペルと発音の乖離のひどさ。発音の複雑さ。
日本語→文字の複雑さ(文字の読みが確定できないことも多い)。接尾辞の重なりすぎ。
中国語→文字の複雑さ。語順に比重がおかれすぎているための、学習の困難さ。
エスペラント→理想に近いが、文字に補助記号を用いている点。および語彙に対する厳格すぎる(また人間に対して理想主義的すぎる)姿勢。
その他西洋の主要言語(ゲルマン語派、ロマンス語派、スラヴ語派)→語形変化が複雑すぎる(人称変化などはもっと単純化されなくてはならない。)
トルコ語→膠着語特有の、接尾辞の重なりが複雑すぎる。

その他、自然言語は元来、世界共通語としては複雑すぎるし、適さない。またネイティブ・スピーカーとそれ以外の極端な不平等は、政治的でありすぎる。

ほんとうは、エスペラント(なかなかよく出来ているし、学習したことのない人が言うよりはずっと自然な言語)の厳格すぎるところを修正してもらうのが近道なのだろうが、どうにかならないものだろうか。規準的なしっかりした辞書を編んで定期的に改訂し、普及させさえすれば、あとは使う人の自由にすればよいと思ったりするのだが。

もっとも、世界の人がその言語しか使わなくなったら、それはそれで問題だけれども。
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テーマ : 言語学・言語論
ジャンル : 学問・文化・芸術

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プロフィール

井上孝夫

Author:井上孝夫
多言語の学習・研究、多言語読書を長年続けています。著書に新潮新書『世界中の言語を楽しく学ぶ』『その日本語、ヨロシイですか?』あり。マンガ・イラストの別ブログ「スケッチ貯金箱」もやっています。

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