『言語変化という問題』

『言語変化という問題』(E.コセリウ著 田中克彦訳)を読了。
 すばらしい著作である。コセリウという言語学者は名前を聞いたことがある、という程度の存在であった。これはもちろん私の不勉強によるものだ。こんな言語学者がいたとは。
 この本を、ソシュール理論に対する反駁の書、と単純に考えてはならないと思う。むしろソシュールの一種革命的な言語理論に対して、その功績は評価しながらも軌道修正を図ったものと捉えたい。それを該博な言語知識と粘り強い思考で裏打ちした。
 私が言語学を大学で習ったとき、ソシュールの構造主義は言語学的思考の基本、という風に受け取られていたと思う。共時態と通時態という明快な区分、言語全体の構造から規定される各要素の価値、といった概念は新鮮だったし、その鋭利な刃物で言語を腑分けするのは一種の快感でもあったのだ。
 しかしその後学問の世界からは離れて、一人でさまざまの言語を学んだり、校閲という仕事で日本語に対したりしているうちに、「言語というものは、そんな、精密な機械のような構造物ではないのではないか」という疑念が募って来た。仕事で日本語の疑問を提出するかどうか迷ったとき、辞書をいくら調べても解決せず、いかに「明確な規則が存在しない領域」が多いかを実感したり、一応規則とされているものが、実例によって否定されるケースなどを目にしたりした。また外国語の文法を学んで実際に文章を読んでみたり、たまに作文を試みたりしていると、習ったことのない文法現象に出会ったり、ルールの無さに茫然としたりする。そんな経験をしていると、言語には厳密なルールが存在する領域と、きわめてゆるい縛りしか無い領域とが同時に存在し、時には矛盾したルールも同時に平然と存在したりするのではないか、つまり言語とは精密機械のようなものではなく、生命を持った軟体動物のように、姿を変えつつ、矛盾を孕みつつもその一体感を損なわずに存在し続けるものではないか、と感じるようになってきた。
 そんな個人的感慨を、このコセリウの書は得心させてくれる。いちいちの点は本書を読んでいただきたいが、新しいパースペクティヴを得られて大変意義があった。
 もちろんこの書を経典のように金科玉条としてはならない。理論はさらに精錬し続ける必要はあるだろう。しかし、倦まず弛まず真理を追求しようとするコセリウの姿を思うにつけ、言語を論ずる者は、やはり地道に「言語の実際」を学び続け、それを基礎として思考するという姿勢を持たなければいけない、と改めて感じた次第である。
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プロフィール

井上孝夫

Author:井上孝夫
多言語の学習・研究、多言語読書を長年続けています。著書に新潮新書『世界中の言語を楽しく学ぶ』『その日本語、ヨロシイですか?』あり。マンガ・イラストの別ブログ「スケッチ貯金箱」もやっています。

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