「話せてナンボ」と言うけれど

多言語学習をしていると、「外国語をいくつ話せるのか?」と聞かれることが多い。「いくつできるんですか?」というのもニュアンスとしては似たようなものだろう。
「そんなに話せません。読むのならもう少し出来ますが」とでも答えようものなら、「なんだ大したことないな。話せてナンボだろ。」といった反応を示す人が多い。
別にどう取られてもかまわないのだが、「話せてナンボ」というセリフには、「ああこの人は外国語を学ぶことが好きじゃないんだろうな。」と感じさせるものがある。
このセリフで断を下した気分なのかもしれないが、本当に外国語学習や研究に精力を注いでいる人間から見たら、「この人は外国語を学ぶ過程の困難も喜びも理解できず、むしろ外国語学習者に反感を覚えているだけなのではないか。」と見えてしまう。
そもそも「話せて」のその「話せる」レベルをどこに設定しているのかも曖昧だ。決まり文句の挨拶程度なら、旅行前にちょっと覚えて、現地でそれを使って現地の人に喜ばれました、ぐらいの経験は誰にだってできるだろう。
そうでなくて「世間話」程度のことだ、という答えもあるだろう。しかし、「世間話」の会話ほど難しいものはない。どんな話題が出てくるかも分らず、相手の感情に配慮した物言いもしなくてはならない。相当の語彙数を身につけ、それを自在に駆使して初めて行えることである。気軽に「世間話程度」なんて口にするものではない。
それより、専門家同士の専門的話題の会話の方が、言語的にはずっと易しいと思う。お互い基本的事項は理解し合っているし、使う用語もその世界の限られたものだけだ。他の部分は多少間違ったって、実質的内容が伝われば充実するのだ。言語的には基本的文法に添ったもので充分であろう。
プロのレベルというのは、そんなものではないだろう。口語的な言い回し、その国におけるあらゆる分野の常識、その場で必要な専門的知識。全てを準備しておかなければプロの通訳は出来ないだろう。そうなると、そのレベルで「話せる」のは1言語で手一杯だろうと思う。
だから多言語をやっているなんて偉そうなことを言うな、という人もいるのだろう。しかし、多言語学習というのはむしろ「知的好奇心」に応えるものである。現実的使用を前提とするものではない。自分が納得すればよいので、人様に講釈するためにやっているのではないのである。
私も本当に一生懸命やっているのはイタリア語で、他の言語は成り行きである。より良く理解出来ればそれに越したことはないから、時には会話練習もするし(スクールではスペイン語やフランス語、韓国語、もちろん英語なども習った。達者とはとても言えないが、それなりの会話は出来たと思う。もちろん配慮のある先生方との会話であるから、現地の人とするのとは違うであろう)、機会があれば読書もする。文法を一通りやっただけ、という言語も多数ある。しかしそんなもの、成り行き任せにするより仕方が無いではないか。
それに昨今の情報通信の発達である。情報収集のためには、言語の「読解」能力の重要性が飛躍的に高まってきた。場合によっては「書く」能力も必要だろう。外国語は「読み書き出来てナンボ」と言われるような時代になるかもしれない。多国籍間での情報のやり取りを理解するには、とにかくも「読める」言語を多数持たなければならない、ということになる可能性もあるのである。
何事も先はどうなるか分らない時代である。無駄に思えたことが、あしたは輝く価値を持つかもしれないのである。
しかし、そういう有用性などにとらわれず、自らの喜びのために学ぶのが一番であることは勿論である。
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プロフィール

井上孝夫

Author:井上孝夫
多言語の学習・研究、多言語読書を長年続けています。著書に新潮新書『世界中の言語を楽しく学ぶ』『その日本語、ヨロシイですか?』あり。マンガ・イラストの別ブログ「スケッチ貯金箱」もやっています。

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