言語というものは・・・

一般に「言語」というもののイメージは、どういうものだろうか。
言葉に関しては「正しい」「間違っている」ということが、常に問題となりがちなのだが、そもそも言語において絶対に正しいとか、間違っているとかいうことが言えるものなのか。
それはどうやら人々が言語における「規則」であるとか、「変化」「継続性」「通用性」等々について抱いている観念に大きく左右されているように思われる。
私の考えでは、言語を精密で堅牢な構築物であるかのように思っている人が多いのではないだろうか。
だが、諸外国語を学んだり、校閲という仕事をしてきた中で、私の目に映るようになった言語の姿というのは、どうもそれとは違うものなのである。
言語は、精密な建築物ではない。それは軟体動物のように、不定形の部分を持ち、不完全な穴だらけの部分も、驚異的な精密さを持つ部分も併せ持ち、こちらの穴を埋めればあちらに穴があき、こちらの出っ張りを引っ込ませればあちらにひょっこりと新たな出っ張りが出現する、といったような、実に捉えどころのない、だがそれゆえに「生きている」物である。
従って、「文法」というものは、言語を飼い馴らすための法律などではなく、言語という軟体動物の振る舞いを必死で理解しようと観察し、後追いで「記述」するものである。文法は「制定」することは出来ない。強制力などもともと無いのである。だから文法を楯に取って、新しい言語現象を律しようとしても、言語はそんなことを聞きはしないのである。言語は、新しい状況に対応できない部分を、あらゆる手段をとって変化させる。例えば「ら抜き言葉」なども、「受け身表現」と「可能表現」をはっきり区別したい、という要請を、従来の日本語が満たしてくれないので、日本語自身が新たな解決法として選択したのだ、と私は解釈している。伝統的文法に反する、と憤っても、「それならどうやってこの必要性に対応してくれるのだ?」というのが、日本語の言い分であろう。
ただ厄介なのは、言語が取る手段というのは一貫していない、ということである。時には矛盾した理屈なども平気で併用する。ある時は簡略化・省略化し、ある時は形を分裂させて複雑化する。ある時は発音上の理由が優先し、ある時は意味的要素が優先する。ルールは無い。
だが考えてみれば、これは人間の頭脳そのものの反映ではなかろうか? 平気で矛盾したことを考え、論理的に考えるかと思うと、次の瞬間には感情的要素が優先する。言語はその人間の人間たる資質を素直に反映しているに過ぎないのかもしれない。
だから、あまりきっちりと論理で言語を縛るようなことはしない方がよい、と私は思う。「こちらが正しい。それは間違いだ」と言っても、言語は平然と変わり続けるだろう。規則で縛れるのは、死んだ言語だけである。
そんなことを言ったら日本語が乱れて、通じなくなってしまう、という意見もあるだろうが、この情報手段の発達した現在、日本語は常時日本中を駆け巡っているのである。方言レベルの差しかない言語内では、むしろ方言は弱体化して同一化が進む、と考える方が自然であろう。むしろ世代差の方が大きくなるだろう。その世代差が、今より大きくなるか否かは予測が難しい。新しい変化が生まれるスピードと、情報流通でそれが世代を越えて共有されていくスピードのどちらが勝るのだろうか。いずれにしても、江戸時代以前のような、日本人同士で全く理解できない言語差、というものが今後発生する可能性は低いのではないか。
言語の正統性、継続性については、難しい状況が続くだろう。もしかすると、古典日本語は外国語のように文法をきちんと学ばなければ理解できない、というようになるかもしれない。ちょうど古英語が現代英米人にも全くの外国語のように。
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テーマ : 言語学・言語論
ジャンル : 学問・文化・芸術

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プロフィール

井上孝夫

Author:井上孝夫
多言語の学習・研究、多言語読書を長年続けています。著書に新潮新書『世界中の言語を楽しく学ぶ』『その日本語、ヨロシイですか?』あり。マンガ・イラストの別ブログ「スケッチ貯金箱」もやっています。

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