言葉のものは言葉に、絵のものは絵に、音楽のものは音楽に

 言語の話題をこのブログでは主に扱っているから、私が「言葉至上主義者」かというと、そんなことはない、と自分では思っている。
 小説の登場人物を映画や漫画などで描いたものを見て、「原作のイメージを壊した」といって怒る人がいる。活字は頭で自由に思い描けるから好きだ、映像はイメージが限定されるからダメだ、といったような意見も時に耳にする。絵では心理描写は出来ない、断然言葉の芸術の方が上だ、と露骨に言わないまでも、それに近い前提で話をするのを聞くことはよくある。
 だがちょっとよく考えてみよう。それはずいぶん言葉寄りの発想ではないだろうか。もちろんこうやって考えてみる、ということは言葉でやるわけで、言葉が人間に欠かせないものであることは言うまでもない。しかし言葉があらゆる点で王者である、という考え方にもちょっと違和感を覚える。
 逆の発想をしてみる。言葉は姿を示すことが出来ない。美しい人を「美しい」、あるいは他の言葉で形容したり暗示したりすることは出来るが、美しさそのものを我々の前に示すことはできないのである。うがった見方をすれば、その示せない姿を、あたかも示しているかのように錯覚させるために「心理描写」というものが発生したのではないか、とさえ私には思われる。
 言葉は音楽・楽曲の美しさをそのまま聴かせることもできない。それを補うために言葉が僅かに保持している「発音」とか「抑揚」のような音的要素を最大限に活用した詩が発達したのかもしれない(もちろん歌という、言葉と楽曲の両要素を備えたジャンルがあるので、こちらは絵の場合とは事情が異なるだろう)。しかし楽器の調べの美しさを言葉で代用はできないだろう。
 心理描写についていうなら、たとえば非常に表情豊かな人物の絵があったとして、それを何らかの言葉で説明しても、それは言葉の映像化と逆で、言葉が絵の表わす心理を歪めて解釈している、ということだって考えられるわけである。
 つまり何が言いたいかといえば、すべての表現手段は万能ではなく、言葉もその例外ではあり得ない、ということである。少なくとも芸術上の「美」に関しては。
 今出版界は未曽有の不況で、電子書籍が出現しても画期的な表現手段が登場しているわけではなく(映像というものがこの世に出現した時とは違って)、行きづまりの感があるが、本当に表現手段の種は尽きてしまったのだろうか。
 従来のような小説だ、エッセイだ、という固定したジャンルにとらわれず、言葉をもっと絵や写真や音楽と共存させて一つの表現に高める、ということは出来ないものだろうか。特に言葉と絵との関係はもっと突き詰めてもいいように思うが(音楽は時間を支配しないといけないジャンルなので、もう少し難しい問題になるような気がする)。
 言葉・絵(写真も含めて)・音楽のそれぞれの特長をもう少し根本から考え直して「言葉のものは言葉に、絵のものは絵に、音楽のものは音楽に」返した上で、もう一度融合を試みる。そういう実験が行なわれてもいいように思うのだが。

 まとまらない思考になってしまったが、最近こんなことを考えている。
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テーマ : 創造と表現
ジャンル : 学問・文化・芸術

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井上孝夫

Author:井上孝夫
多言語の学習・研究、多言語読書を長年続けています。著書に新潮新書『世界中の言語を楽しく学ぶ』『その日本語、ヨロシイですか?』あり。マンガ・イラストの別ブログ「スケッチ貯金箱」もやっています。

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