『神曲』読了

『神曲』天国篇を読了。
これで『神曲』全篇をイタリア語で読む、という目標はひとまず達成。
平川祐広先生の翻訳の助けを借りて、どうにか最後まで辿り着いた。
天国篇は難しい。
キリスト教、イタリア史、当時の天文学等々、正確に読み解くには大変な知識が必要で、それは詳細な注の助けを借りるしかないのだが、それにしても、である。
しかし一つ確信したことがある。
それは「天国篇」こそが、ダンテの詩人の力量を示した、最も重要な部分ではないか、ということだ。
「地獄篇」は、ある意味分りやすい。現世で人が犯すさまざまな罪、それに対する報いを、豊富な想像力、卓越した描写で描く。
 これは現代人にも理解できるし(実際にそのような報いがあると信じるか否かは別として)、地獄の構造なども説明されればそのスケールの大きさも納得がいく。
「煉獄篇」もそれに準じて、分りやすい。天国にいまだ到達できぬ宙ぶらりんの状態の魂たちは、私たちにも感情移入しやすい。
しかし「天国篇」は違う。そこにあるのは聖なる光に包まれた聖人たち、そして神である。しかもこれは宗教文書ではない。文学であり、詩である。その中で、「聖性」などというものがいかに扱いづらい対象か、我々にはそのことを想像することすら骨が折れるのである。

ダンテは自分が生きている人間であり、詩人であることを片時も忘れはしない。
その立場から、描写しようのないほど神々しいものを、不可能であることは分っているが、力の限り描く、という態度を鮮明にしているのである。
だから、最後の神との対面など、「書いていない」ことによって「書いている」のだ。
最後の詩大33歌で、

Da quinci innanzi il mio veder fu maggio
che ’l parlar mostra ,ch’a tal vista cede
e cede la memoria a tanto oltraggio.
(その先で私が見た姿は
  言葉では及ばぬ言葉を越えた像〔すがた〕、
  記憶では及ばぬ記憶を越えた像だった。)
〔平川祐広・訳〕

と歌っているが、その誠実な態度こそが、神性に満ちた存在の影を、我々の心の内に瞬間(たまゆら)のあいだだけでも垣間見させるのである。
このような離れ業は、現代の人間にはできないだろう。いや、ダンテだからこそ成し得たことなのかもしれない。
それにしても、この大作は、1回読んだくらいでは掴みきれない部分がたくさんある気がする。とはいうものの、次に控える読み物も決まっているのだ。
今度はセルバンテスの『ドン・キホーテ』だ。
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テーマ : イタリア語
ジャンル : 学問・文化・芸術

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井上孝夫

Author:井上孝夫
多言語の学習・研究、多言語読書を長年続けています。著書に新潮新書『世界中の言語を楽しく学ぶ』『その日本語、ヨロシイですか?』あり。マンガ・イラストの別ブログ「スケッチ貯金箱」もやっています。

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