日本語起源論寸感・タミル語起源説の問題点

 たまたまある人と話していて日本語起源論の話題となり、「タミル語起源説はちょっと疑問だなあ。でも、そもそも日本語起源論にはそんなに興味ないな。」と言ったら、ちょっと怪訝な顔をされた。
 日本語起源論は日本史の邪馬台国の議論と同じように、何だか泥沼のように思える。足を一旦突っ込んだら、抜け出せなくなりそうで、とてもそんな気になれない。
 そもそもある言語の起源・系統を決定する原理がはっきりしていない。言語のどういう要素が似ていたら、同系統と判定されるのか。語彙か、文法構造か? そして語彙や文法構造の類似の度合を測る方法はどういうものか? 現在は「基本的語彙」的なものの類似度を音変化の規則性に基づいて判断し、そのパーセンテージを比べたりしているのか、と推測するが(それとも、より科学的な方法が打ち立てられているのだろうか?)、そもそもそれによって、本当に言語の系統は証明されるのだろうか?
 印欧語族のように、それらの全ての要素が明らかに類似性を持っているなら、同系統と容易に判断できるだろう。しかし、語彙あるいは文法構造の一部だけに類似性が認められる場合、その判断は大変難しくなる。
 前にも例に挙げたが、タレントのルー大柴さんの「ルー語」というのが一時話題になったが、あれが言語の類似という問題に、分かりやすい例を提供する。
 「犬も歩けば棒に当たる」→「ドッグもウォークすればポールにヒットする」
 ギャグであり、当然聴いた人は笑う。この「笑う」というのが凄いことで、瞬時にこの言語は理解されたのである。ピジン語などはこのように生まれるのか、と想像が働くが、仮に本当にこういう言語が普通に使われていたとすると(たとえば日本語地域が植民地となり、商人たちの間でこのような言語が生まれた、と仮定してみよう。)、この言語ははたして日本語の系統になるのか、それとも英語の系統となるのか?語彙から言えば、「犬」「歩く」「棒」「当たる」という、比較的基本語彙的なものが英語と同じ(もっとも動詞は名詞的に変換されているが)なので、英語の系統に当たる言語だ、と言われる可能性は高い。しかし、これはどう見ても日本語の土台に英単語を乗っけただけのもの、と我々は判断するだろう。それは土台=文法構造が日本語のもの、だからである。そしてその土台を具体化するための語彙(=「〜も」、「〜ば」、「〜に」、そして英語の動詞を日本語の土台に組み込むためにつかう動詞「する」など)が、日本語の物だからである。このように同じ語彙、といっても文法に深くかかわるもの(接辞も含む)と、具体的な事物、行動などを表わす語彙は分けて考えなくてはならないだろう。また、系統を考える上で文法構造の比較、その諸現象の分布、なども考慮に入れなければ、科学的な議論にはならないだろう。
 これは大変なことである。文法構造の比較は、諸言語を広く研究して、比較研究しなければならない。
 タミル語は、確かに膠着語であり、広い意味では日本語と同じであるが、私が気になるのは「人称・数変化」が厳として存在する点である。「私が」「あなたが」「彼が」「私たちが」・・・と、人称・数が異なるにつれて、動詞もその形を変える(接尾辞により)。膠着語は西のフィンランド語・ハンガリー語から、広く分布するチュルク諸語、そしてタミル語の属するドラヴィダ諸語、そして東のモンゴル語、満州語、朝鮮語、日本語と広大な空間に多数の言語が存在する。その中で、人称・数変化をしない日本語と同じタイプは朝鮮語、モンゴル語、満州語、またニヴフ語(ギリヤーク語)など、比較的アジア東部地域に分布が偏っているように見える(ドラヴィダ語族のマラヤーラム語も人称・数変化をしないが、これはタミル語から10〜14世紀ごろに分化したものだから、日本語起源論とは無関係の現象、と考えてよいだろう)。正確な分布は共同研究でもしなければ分からないだろうが。
 いったい人称・数による活用は、そんなに簡単にあちらでもこちらでも消えたりするものだろうか。印欧語族でも、英語などは人称変化が擦り切れかかっており、北欧のゲルマン語(スウェーデン、ノルウェー、デンマーク語)などでも変化は消えている(古形で単複の違いはある)。古くはアイスランド語のようにきっちり人称・数変化をしていたのだから(ちなみにフェーロー諸島のフェーロー語は、複数における形は一種類で、部分的に区別が消えている)、これは一例であるとは言えるかもしれないが、あくまでも一例にすぎない。普遍化するのは危険だろう。タミル語が日本語の原型であるなら、マラヤーラム語に分化する前に、東アジアでも人称・数の単純化を引き起こしたということになるが、それが朝鮮語やその他にも影響したのか、それとも東アジアの現象は別個に起きていて、タミル語がその影響を受けたというのか。朝鮮語と日本語には無視できない構造上の類似があるが、それとの関わりはどう説明されるのだろう。(ちなみに、朝鮮語は構造が日本語と酷似しているにも関わらず、構造に関わる基本的語彙が異なっている、という不思議な現象を呈している。)
 考えるだけで頭が痛くなってくる話である。おそらく結論は出ないだろう。天才言語学者の出現を待つしかない。ちょっとした話題を振るつもりで、思わず話が長くなってしまった。泥沼たる所以であろう。

 なお、拙著『世界中の言語を楽しく学ぶ』が電子書籍になりました。詳しくはShincho LIVE!をご覧ください(http://www.shincho-live.jp/ebook/)。
あの本で書き切れなかったことなどは、このブログで書いて行くつもりです。もしまだお読みでなくて、電子書籍を買う環境がある方は、是非お求めいただければ、と存じます。
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テーマ : 言語学・言語論
ジャンル : 学問・文化・芸術

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井上孝夫

Author:井上孝夫
多言語の学習・研究、多言語読書を長年続けています。著書に新潮新書『世界中の言語を楽しく学ぶ』『その日本語、ヨロシイですか?』あり。マンガ・イラストの別ブログ「スケッチ貯金箱」もやっています。

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