言語の持つ歌

フランス語でジャン・ジロドゥー(Jean Giraudoux)の「オンディーヌ」(Ondine)を読んでいたのだが、とうとう途中で放り出してしまった。
半分近くまでこの戯曲を読んでいて、どうにも読む愉悦が得られないので、止めたのである。
私は外国語の原文読書に一つの原則を持っている。
それは、「その作品が、その言語の本来持っている調べを引き出しているかどうか」ということである。
わざわざ苦労して原文を読むのである。それ相応の見返りは欲しい。
私にとってそれが、「その言語が本来持っている『歌』を感じられること」なのである。
述べられている意味内容さえ分ればいいのなら、翻訳を読めば十分である(誤訳でない限り)。
ましてや私が読みたい古典作品などは、翻訳が存在するケースが多い。
そこをあえて原文で読むのは、翻訳では得られないその言語ならではの味わいを感じたいからに他ならない。
チェーホフのロシア語も、ピランデッロのイタリア語も、
マーク・トウェインやスタインベックの英語も、
翻訳では得られない言語の魅惑に満ち満ちていた。
それがあるからこそ、性懲りもなく原典講読にチャレンジするのである。
しかし「オンディーヌ」には、それを感じることができなかった。
私は文学研究者ではないので、フランス文学史における、この作品の位置付けについてとやかく言う気はない。
道具立ては面白い。水の精オンディーヌが、人間(騎士)に恋をする話である。
結末では、どうやらそのために本来の能力を失ってしまうようだが、
どうもこのオンディーヌの細かい言動に、私の感性が全く反応しない。
言っておくが、内容・筋立てがどうこう、と言っているのではない。
その語られるフランス語に、どうも魅力を感じられなかったのである。
もちろん、フランス語の文体云々などという大層なことを述べ立てているのではない。
そんなものを批評する力は、無い。
ただし、どんなに有名なワインでも、自分の体に合わないものは仕方が無い。
この拙いフランス語学習者を魅了する「フランス語の調べ」が見出せなかった。
言語という楽器は、鳴らす人によって色々な音を立てる。
演奏者の好き嫌いが出てくるのは、やむを得ないだろう。
ジロドゥー氏に、無論責任はない。彼は学習者のために作品を書いたのではない。
文学者として、信念に基づいて書いたはずである。
しかし、作者の信念と、読者の感情とには、齟齬が付き物である。
これも相性の問題、とあきらめるしかないだろう。
代わりに贔屓のピランデッロ『故マッティア・パスカル』(Il fu Mattia Pascal)を読むことにした。
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ジャンル : 学問・文化・芸術

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プロフィール

井上孝夫

Author:井上孝夫
多言語の学習・研究、多言語読書を長年続けています。著書に新潮新書『世界中の言語を楽しく学ぶ』『その日本語、ヨロシイですか?』あり。マンガ・イラストの別ブログ「スケッチ貯金箱」もやっています。

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