語学学習の核

新しく言語を学ぶ時、どういう学習法を中心に据えたらいいのだろう。
古くて新しい問題である。
人がどのように言語を身に付けるのか、ということについては
いろいろな学者が様々な意見を述べているけれども、
決定的な論は見つかっていないようである。
もちろん私は言語学を少しは齧ったが、
専門家ではないので、画期的な説など述べられないけれども、
最近、一つ「こうかもしれないな」と、漠然と感じていることがある。
それは以下のようなことである。

「人は、具体的な状況に対応した、簡単なフレーズをたくさん丸覚えする。
覚えて真似する際に、相手(多くは親)の反応を見て、自分の真似方が正しいかどうか確認する。
それによって、音を分析し、音韻体系を身に付ける。
同様に、単語や接辞的要素を切り出す。
これが「フレーズ(接辞的要素を含む語、複合語なども含む)を出発点とする分析的習得」である。
そして逆方向の、「フレーズを出発点とする、総合的習得」、
つまりフレーズの組み合わせによる、複雑な文章の組み立ておよびその理解へと進む。」

大事なのは、「単語や接辞といった原子的要素を、複雑な文法的ルールによって組み立てる」
といった類の「原子論」の立場に立たないことである。
むしろ「原子の組み合わさった分子、あるいは簡単な化合物」こそを出発点とし、
そこから「分析」によって諸要素を、「総合」によって複雑な化合物を手に入れる、
という風な「分子論」とでもいう考え方をする。
しかしこの場合、大事なことは、分析に際して用いる理論は、
その場の必要に合致さえすればよく、互いに矛盾していても、
人間はそれを平然と使い分ける、ということである。
このあたりが自然科学と根本的に違うところで、
これを整然と体系づけようとしても失敗することがある。

例えば、昔、「カレーライス」という呼称と、「ライスカレー」という呼称が
併存していた時期があった。
この二つは、どう違うのか、人に訊いたことがある。
私自身は、、「カレーライスはライス類の一種、ライスカレーはカレーの一形態」だと信じていた。
ところが、それを訊かれたある人は、
「それは皿にカレーとライスを盛り付ける順序の違いだ」と断言した。
私は大変意外に感じたのだが、その人にとってはそれで整然と理解ができていたのである。
言語の分析に用いる理屈というのは、人によって時にまちまちであったりする。
自分の感覚とちがう理屈で言語を変化させられると、違和感を覚えるが、
それが多数派となると、衆寡敵せず、で受け入れるしかない。

ともかくこんな風に、フレーズを出発点にした方が、
分析にせよ、総合にせよ、楽なのではないだろうか。
分析の結果は、文法によって理性で納得し
(特に音韻の習得能力は早いうちに失われると思われるので、
理屈で納得するしかないだろう)、
あとはひたすら、シチュエーションとフレーズの対応を覚える
(これが、よく言われる「習うより慣れろ」ということなのだろう。
だが、一人で分析するのは時間が掛かるし、ここは理屈の助けを借りた方が早い)。
だが基本は、フレーズの分厚い集積であろう。
そこからスタートするしかないと、最近思っている。
結局は、平凡な結論に至ってしまう。

何だかまとまりのない話になった。
まだうまく固まっていない考えなので、今後も手探りで考えて行きたい。
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テーマ : 語学の勉強
ジャンル : 学問・文化・芸術

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プロフィール

井上孝夫

Author:井上孝夫
多言語の学習・研究、多言語読書を長年続けています。著書に新潮新書『世界中の言語を楽しく学ぶ』『その日本語、ヨロシイですか?』あり。マンガ・イラストの別ブログ「スケッチ貯金箱」もやっています。

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