『樹木』ふたたび

 またもやヘッセの『樹木』にいい文章を見つけた。「栗の木」という文章中の一節である。
 ヘッセは若いころ、シュヴァーベンラントにある、栗の木に埋もれた小さな町に8日間ほど滞在した。その町は城の周りに乾いた広大な壕が巡らされ、さらにその周囲を道が取り囲む。その片側には家並の低い、古い家々が立ち並び、もう片側には壕を見下ろすように多数の栗の大木が茂っている。その壕にある宿屋に彼は泊まった。そしてこう書く。

…Das Schönste war, daß ich am Graben wohnte, in der Wirtschaft zum »Blonden Adler«, und die ganze Nacht die vielen blühenden Kastanien, rote und weiße, vor meinem Fenster hatte.
(…最も素晴らしかったのは、「ブロンドの鷲」という名の宿屋に泊まり、たくさんの栗の花が窓の外に赤く白く咲き乱れるのを、夜通しこの壕(ほり)の中で目にしていたことである。)

 しかし旅する若きヘッセは、夏の夜の暑さゆえにあまり眠ることができない。蚊が遠慮会釈なくまとわりつく。体に酢をなすり込み〔このような酢の使い方をしたのだろうか?〕、灯りを点けずに煙草をくわえ、窓際に座る。

Was für höchst wunderliche Abende und Nächte! Sommerduft und leichter warmer Straßenstaub, Mückengeschwirr und feine, elektrische Schwüle in der Luft verteilt und heimlich zuckend.
Jetzt, nach allen den Jahren, blicken mich diese warmen Abende am Kastaniengraben so köstlich und ergreifend an wie eine Insel im Leben, wie ein Märchen und wie eine verlorene Jugend. Sie schauen so tief und selig und flüstern so betörend süß und heiß und machen so wunderbar traurig wie die Sage vom Paradies und wie das verschollene Sehnsuchtslied von Avalun.
(何とまた奇妙な宵と夜であろうか! 夏の香りと、通りから立ちのぼる軽くて暖かい土埃、蚊の鳴く声、そしてかすかな、電気を帯びたような蒸し暑さが空気中に広がり、ひそかに煌めいている。
 今、人生の年月が過ぎ去った後で、栗の木の壕で過ごしたこの暖かな宵が、愉しくも胸打つものとして私を見つめている。それはまるで人生の中の一つの島のようであり、おとぎ話、失われた青春のようでもある。それは深く至福に満ちた眼差しで私を見つめ、幻惑するように甘やかにそして熱く私にささやきかけ、不思議なほど私を悲しい気持ちにさせる。それはまるで楽園の伝説のようであり、西の海に浮かぶ幸福の島アヴァロンへの過ぎ去った憧憬の歌のようでもある。)

「電気を~」とあるのは、向かいにある職人たちの工場との関わりでそういう表現になったものか。
 いずれにせよ、ここには若さと夢と老境と諦念が混然一体となった表現がある。こんな文章を、他の言語でも読んでみたいものである。
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プロフィール

井上孝夫

Author:井上孝夫
多言語の学習・研究、多言語読書を長年続けています。著書に新潮新書『世界中の言語を楽しく学ぶ』『その日本語、ヨロシイですか?』あり。マンガ・イラストの別ブログ「スケッチ貯金箱」もやっています。

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