外国語学習は不要になるのか?

 NHKスペシャルで、コンピューター技術の発達で未来がどうなるかという特集を放送していた。
 なんでも、人間とコンピューターが合体するような方向で、能力が飛躍的に上昇するのだそうである。
 その中で、外国語も互いの言語で話しつつ、互いに瞬時に理解できるようになるのだ、と説明していた。相手が英語で話していても、それが日本語として理解できる、みたいな説明であった。
 よく分からないのは、その「わかる」が、訳された日本語として理解できると言うのか、それとも英語そのものが分かるのか、それとも言語の違いを超えて「意味」そのものとして脳に伝わるのか(そんなことが有り得るのだろうか)、そのイメージがはっきり掴めなかった。
 意味そのもの、というのが言葉を抜きにして存在するとは信じられない。テレパシーと変わらない話になってしまう。
 日本語としてコンピューターが即時に変換してくれる、というのは考えられる。この場合、こちらはあくまでも「日本語」を理解しているのであり、相手の言葉を直接理解してはいない。しかし旅行、ビジネス、その他の情報伝達などには役立つであろう。
 しかしこの場合、相手の言葉の意味を本当に感じ取ったり味わったり、という、言葉の最も深い部分の理解は怪しいだろう。チェーホフやガルシア=マルケスの精神が紡いだ言葉そのものを、その響きと共に立ちのぼる血の通った言葉・精神・心情として受け取る、つまり「味わう」ということは、機械に代わってもらうことはできないだろう。最高の料理を人間の代わりに機械に味わってもらう、などというのが馬鹿げたことであるのと同じことだからだ。
 会話でも、例えば”I love you.”という言葉をそのまま血の通った言葉として感じ取れるか、それとも「あなたが好きです。」という日本語に直って初めて分かるという、一枚薄皮が挟まった状態でしか理解できないのとが全く同じことなのか、という問題である。
 しかし、実用のための語学なら、かなりの部分機械が肩代わりすることになるだろう。職業としての通訳やビジネス翻訳などは、影響を受けるかもしれない。
 逆に実利を旨としない、外国人と気持ちを通わせるための語学は、そう価値を減じるとは思われない。しかし現在もそうであるが、実利を伴わないことに多くの人は興味を示さないのであるから、そういう語学学習に勤しむ人は相変わらず少数派であろう。
 最後に、外国語を外国語として理解する、その感覚をコンピューターが人間の脳に味わわせてくれるのだろうか。私にはよく分からない。だとすれば外国語学習は不要になるのだろうか。しかしその外国語運用の知識・感覚は、脳そのものに焼き付けられるのか、それともコンピューターが故障したら真っ白になってしまうのか。
 いずれにしても、人間同士の理解につながる発展ならば歓迎だが、理解のための努力に手を抜きたいということに役立つだけならば、最終的にあまり良い結果をもたらすとは思えないのである。
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プロフィール

井上孝夫

Author:井上孝夫
多言語の学習・研究、多言語読書を長年続けています。著書に新潮新書『世界中の言語を楽しく学ぶ』『その日本語、ヨロシイですか?』あり。マンガ・イラストの別ブログ「スケッチ貯金箱」もやっています。

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