タガログ語と哲学

フィリピンのタガログ語(国語として標準化したものをフィリピノ語という)は、
実は大変難しい言語である。
この言語は文を組み立てる論理が
英語や日本語や、その他普通学ばれる言語と
全く異なる。
物事の叙述を、動作主(主語)とその動作を中心に、
その動作を受ける対象(目的語)、
それに付随する状況(副詞的表現)その他を添える、というのが
普通の言語だろうが、
タガログ語は、状況の中で焦点を当てる対象をまず選ぶ。
そして、それがその動作から見て何に当たるか(主語か目的語か場所かなど)によって
動詞の変化を変えるのである。
例えば、
Bumili ako ng libro.(私は本を買う。)は主語ako(私は)に焦点を当てている。
Bilhin ko ang libro.(本は、私が買う。)ではang libro(本は)に、
Bilhan ko ng libro ang tindahan.(店〔で〕は、私が本を買う。)では
ang tindahan(店は)に(「店で」はsa tindahanと言う)焦点がある。
その他、道具(〜で)、受益者(〜のために)、方向(〜へ)、理由(〜のせいで)などにも
それぞれ焦点を当てた別個の動詞変化がある。
ang,ng,saは英語のtheに当たるが、焦点が当たっているとangとなり、
属格・対格に当たるものはng、与格・所格に当たるものはsaである。
代名詞も焦点の当たる形とそれ以外の形は違う。
あまり細かく言っても混乱するだろうが、
要は、「状況の中で何にピントを合わせるか」が最も重要なのである。
こういう言語を見ていると、西洋哲学で西洋言語の論理を普遍的なものとして
原理の説明などをしているのを読んで違和感を覚えることがある。
私は哲学の専門家ではないから、詳しくは述べられないが、
哲学専攻の学生などで、西洋語とは論理の違う言語を学び、
そこから言語と思想の関連を研究する人などが現れないか、と思う。
なお、タガログ語の文法はまだ解明しきれていない部分も多い気がする。
言語学徒にも是非学んでいただきたい言語である。
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テーマ : 言語学・言語論
ジャンル : 学問・文化・芸術

プロフィール

井上孝夫

Author:井上孝夫
多言語の学習・研究、多言語読書を長年続けています。著書に新潮新書『世界中の言語を楽しく学ぶ』『その日本語、ヨロシイですか?』あり。マンガ・イラストの別ブログ「スケッチ貯金箱」もやっています。

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