発音を教えるために

 実用的な英語教育を推進するために、小学校から英語を教えろと政府が政策を進めているが、現場ではどうなのだろう。そんなにうまく行くのだろうか。政策を決める方は気楽に決めても、実際に教えられる人間がいなければ「画に描いた餅」になることは見えている。
 そもそも従来の中学校からの英語教育だって、けっこう怪しい方法論でやっていたような気がする。
 中学校1年の英語教科書を見た時、見たこともない発音記号らしきものが当然のように載っていて、しかもそれを先生が説明もせず、「なんとなく俺の発音で見当をつけろ」とでもいうように授業が進んでしまい困惑した生徒は数多いだろう。
 betterという単語が「ベター」だと思っていたら、アメリカのポピュラー音楽などでは「ベラー」みたいに発音していて、これは一体どういうわけだ、と思ったが、そのうち「アメリカ人はアメリカ風に訛るのだ」と無理やり納得したように記憶している。
 tという音にいかなるヴァリエーションがあるのか、という説明があれば、きちんと納得できただろう。
 また[θ][ð]といった音の発音が、「下を歯で挟む」みたいな間違った発音指導をされたこともあったと思う。だから「舌を噛みそう」になる、などという形容がよく成された。これらの音は、下先と前歯の間で空気が狭い空間を通る時に起こす摩擦音、なのであって、下顎の歯は何の関わりもない。舌先を前歯の後ろかやや下の方にちょっと触れるかどうかぐらいに近づけて息をそこに吹き込めばそれで済むのだ。歯の間に舌先を挟む、などというアドバイスは必要が無いどころか有害である。
 それもこれも、大学の教育で音声学の基本、発音の基本的原理が教えられていないからであろう。「話すのが重要」というならば、まずそのあたりから直していかなければ英語の会話教育も決して進歩しないだろう。これは世界の英語の発音のヴァリエーションを理解するにも大事なことなのである。
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音声記号のレベル的差異について

言語の発音表記には、いろいろなレベルがある。
一般には国際音声記号が使われている、と理解されているだろうが、実際にはそれがそのまま利用されることは少ないのである。何らかのヴァリエーションが加わっている。
たとえばrという発音記号は、英語とフランス語、スペイン語でははっきり発音が異なる。本来はスペイン語のように、舌先を震わせるtrillと呼ばれる音を表すが、英語では舌先を巻き上げる音ɹであり、フランス語では口蓋垂摩擦音ʁを表すことが一般である。
国際音声記号自体も、精密さと、言語観察の結果としてのある種経験値との妥協みたいな性質を持っている(発音は可能であるが実際に観察されない音に対する記号は存在しない。例えば、舌先と上唇を接触させて破裂させる音というのは発音可能だが、それに対する音声記号は無い。また、微妙な発音位置の違いによる音の違いは、実際に諸言語に音韻の違いとして現れないヴァリエーションは考慮しない)。
これは当然であろう。差異を突き詰めて行くと、個人的な音の違い、果ては同一人の発音毎における細かな違いまで表わさなければいけない、という極論に達してしまうわけで、それは恐ろしく非現実的な話だからである。
音声記号にいろいろなレベルの差異があり、通常は一部そのレベルを混淆させながら表記しているのだ、ということは頭の片隅に置いていてよいことであろう。

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高さアクセントと強さアクセント

今聞いているハンガリー語の録音で、
やはり自分の弱点だと思ったのが、
「強さ(強勢・ストレス)アクセント」と「高さ(高低)アクセント」の聞き分けである。
日本語は音の高さ低さでアクセントを区別しているが、
多くの言語では強さで区別している。
英語もそうだし、印欧語はほとんどそうだろう(ハンガリー語は印欧語族ではないが同様)。
スウェーデン語には高さアクセントによる意味の区別がある。
セルボ・クロアチア語にもあるらしい。
この点は、入門書でもあまり精細に扱っていなかった気がする。
それはともかく、私も日本人ゆえ、高さアクセントが身についてしまって、
どうしても強さアクセントより優先して聞き取ってしまう。
英語のReally?という文は、頭に強さアクセント、尻尾に高さアクセントが来る。
でも自分の耳にはどうしても後ろにアクセントがあるように感じてしまう。
今聞いているハンガリー語の録音でも、
Van repülőjárat Londonba?(ロンドンへの航空路線はありますか?)という文で、
真ん中のrepülőjáratは平板に、最後のLondonbaではdonのところにアクセントがあるように聴いてしまった。
ハンガリー語は、すべて第1音節にアクセントを持つ、と知っていてもそう聴いてしまうのだから、
母語のアクセントというものは、強固なものだ。
言語学者といえども、この桎梏を脱するのは並大抵ではないだろう。
言語学者は全ての言語を冷徹に腑分け(ふわけ)できる人間だ、と思っている人も多いだろうが、
案外本人は苦心惨憺で他言語と格闘しているかもしれないのである。

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鼻的破裂音または鼻腔開放について

服部四郎『音聲學』に「鼻的破裂音」というのが出て来て、
学生時代以来なんとなく気になっていた。
(小泉保『音声学入門』では「鼻腔開放」と名づけている。)
これは英語のwritten, ribbon, baconなどの語の最後の部分、
閉鎖音+nのところで、その閉鎖音の部分を、
鼻腔(鼻につながる気道の途中)を開放して(破裂させて)発音するもので、
ちょうど、鼻の奥になにかひっかかっている感じの時に
「フン、フン」といって鼻から息を出そうとするのに似た感じで、
しかもその息はちゃんと「ン」という鼻音になっている発音である。
ところがこれは、通常の英和辞典などには[tn],[bn],[kn]などと表記されているものだから、
日本人はまともにこれを発音しようとして、どうしても[tən],[bən],[kən]などという発音をしてしまう。
またこれを「声門閉鎖音+n」と解釈しているものもあり、あまり解釈が一定していない。
もしも鼻的破裂音を[ʼn]と表記するなら(国際音声字母には、どうも記号が見当たらない)、
それぞれ[tʼnn],[bʼnm],[kʼnŋ]とでもなろうか。
最後の音が違っているのは、その前のt,b,k(鼻的破裂音とほとんど同時に発音される、と言うか、調音位置に舌は来るが、破裂は鼻腔の方でほぼ行われるので、ほとんど、又はかすかにしか聞こえない)
のために置かれた舌の位置のせいで、鼻音の音色が違って来るためである。
というのが私の解釈なのだが、「声門閉鎖音+n」のケースが本当に無いのかどうか、
また上記のような微細な発音器官の動きが正しいかどうか、
音声学の専門家にお聞きしたいところである。
しかし、アメリカ英語のこういった基本的な(珍しい発音ではない)について、
教育現場で使える定説もないのでは、英語教育がどうのこうのと言ったって
結局は「習うより馴れろ」という結論になってしまうのは仕方がなかろう。
発音の理論は、きちんと立てられるはずなのだが。
中学校のとき感じた、発音記号の奇妙さと、それを説明してくれない先生への不信感は、
実は根深い問題だったのかもしれない。


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抽象的音声記号(3)

今回は「抽象的音声記号」を実際の記述に応用する例を示して、まとめとしたい。
例えば、ドイツ語やロシア語で、
「語末に来る有声閉鎖音は無声化する。」という規則がある。
これは従来、文章で表現するか、
-g⋕ → -k⋕
-b⋕ → -p⋕
-d⋕ → -t⋕
というように、一つ一つの音種についての変化を全て列挙するしかなかった。

 また、「有声閉鎖音が、無声音に接続すると無声化する」という規則を表わそうとすれば、
文章以外なら、通常は10以上の式を示さなければならない。

しかし、抽象的音声記号を使えば、それぞれ、
無声音化
と書けば済む。(シャープ記号は、位置により語末あるいは語頭を表わす。)

また、「前方母音の前に来る子音は口蓋化(口蓋に舌がより広く接近した、潰れたような感じの発音、例えば「サ」が「シャ」に、「カ」が「キャ」になるような変化)を起こす」という規則は、
palatalization
と記せばよい。

また、「前方母音のあとに来る後方母音は前方母音化する。」という、トルコ語等に見られる母音調和の規則は、
front-vowelization
と示すことができよう。(その逆も起きる〔後の前方母音が前の後方母音のせいで前方母音化する〕が、逆の式をもう一つたてるだけでよい。実際の母音を全て列挙したら、大変な数の式を立てなければならない。)

音声変化の規則というものは、大変厄介な場合が多いが、このような工夫により、より簡潔に、納得しやすい公式化が出来るのではないかと思う。
もっとも、それでもなおいくつもの式を立てなければならないケースも出てくるだろうが、それを従来の方法でまとめていたら、より煩雑になるであろうから、このような記号は有効性があるのではないかと考える。

以上、完全に自前の説ではあるが、多言語学習で実際に役立っているものなので、ここに紹介した。
細かい工夫は各人でやり易いようになさればよいと思う。

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プロフィール

井上孝夫

Author:井上孝夫
多言語の学習・研究、多言語読書を長年続けています。著書に新潮新書『世界中の言語を楽しく学ぶ』『その日本語、ヨロシイですか?』あり。マンガ・イラストの別ブログ「スケッチ貯金箱」もやっています。

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