思ったより大変

 アラビア語方言シリーズは最後のアルジェリア方言に移る。
 これはリンガフォンにかつてあったコースで、フランスの植民地だったアルジェリアのアラビア語方言が、どうしてイギリスの語学教材であるリンガフォンの中に入ったのかその理由はわからない。ともかくしっかりしたコースなので、すこし腰を据えて聴こう。元はレコードだった教材である。ずいぶん長いことお蔵入りだったがやっと陽の目を見る。
 ウクライナ語も聴き終わるので、こんどは再復習の現代ギリシャ語。主だった各国公用語は、時々簡単なものを聴き直さないと次に必要になった時のウォーミングアップが大変なので、ご無沙汰だなと思った時にこういう復習シリーズを挟むことにしている。
 旧仮名遣いの説明のための日本語動詞活用の整理はまだ続いている。思ったよりもはるかに大変である。それにしても「国文法」と称されるものには不可解な点が散見される。前回述べた「来る」(古語は「来(く)」)のみならず、「す(る)」、「ふ〔経〕」、「ぬ〔寝〕」、「う〔得〕」なども語幹無し、ということになっているようなのだ。「ぬ」と「ふ」などは活用表では「尋ぬ」とか「答ふ」などで代用されていて(少なくとも私の手元の辞書では)、「語幹無し」という事実がなるべく表に出ないように配慮しているような感じすら受けてしまう。もっとも国文法の本を渉猟したわけではないので、きちんと示しているものもあるだろうとは思うけれども。
 とにかく「語幹」の無い動詞が少なくとも5つある、というのは大変な事態である。素人としては「これでよいのか?」とつい考えてしまうのだが。
 というわけで、ちょっと自分なりに考えてみた結果、「単子音語幹」と「ゼロ語幹」というものを設定してはどうかという考えに至った。単子音語幹は「く」「す」「ふ」「ぬ」の4つで、それぞれ語幹はk-、s-、h-、n-である。ゼロ語幹は「う」1語のみ。これは言語学でその要素が欠落している時の記号φ-で示す。日本語の動詞の終止形はuで終わるので、「語幹がゼロ」ならばφ-+u→[u]しかあり得ない理屈である。活用形はφ-+u-→「う-」とφ-+e→「え-」の2種類の形を取る。「え(ず)、え(て)、う、うる(とき)、うれ(ども)、えよ」。単子音語幹もこれに準じて考える(活用形はそれぞれの型に従う)。
 その他は従来の活用表と同じにする。いたずらに全てをローマ字表記にはしない。これは実用性(日本人にとっての)のためである。理論のための理論では実用には供せないからである。
 こんな考えで、ああでもないこうでもないと整理しているので大変なのである。出来上がりはいつになるだろうか。校閲を教える助けになってくれれば有り難いけれども。

(追記)
 書き忘れたが、活用表にはその他にも「語幹無し」とされる動詞がある。「射る」「居る」「煮る」「干(ひ)る」など。しかしこれらは、「る」の前の部分を語幹とし、未然形・連用形の活用変化部分をゼロ(-φ-)とすれば「-φ-、-φ-、-る、-る、-れ、-よ」という活用で整理できる。現代語の活用も未然形・連用形の活用変化部分をゼロ(-φ-)とすれば、上一段・下一段の活用は簡略化できるのではないかと考えているのだが、詳しく検討していないので決定的なことは言えない。また活用表があまりに代わってしまうと、現行の辞書が使いづらくなってしまうので、それとの整合性を実際には考えなくてはならない。そこら辺の落しどころが難しいのである。文法は考えだすと面白いけれども、まとめるのは難しい。しかし聖典のように一字一句変えてはならないというものではないのだ。こういう風に考えるのは自由だし、むしろ言葉への認識を深めることになるのだと思う。
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旧仮名遣いの説明に苦労

 校閲講座で旧仮名遣いを説明するため、文法的な観点からまとめようとしているのだが、始めると結構厄介だ。
 日本語の仮名はほとんど音節文字、といっていいものなので、変化形を記す場合に不都合が出る場合がある。「来る」などは「こない」「きた」「くる」と、語幹ではないかと思われる部分が「こ〜き〜く」と変わってしまうので、仮名では語幹が設定できない。ローマ字なら、ko〜ki〜kuなので語幹をk-と設定できるのだが、仮名ではそうはいかない。「する」もそうだし、上一段活用にもそういう動詞が多い。整理の仕方を考えなければいけない。一般的な説明とは少し違う説明をしなくてはならないかもしれない。
 文法というものは、法律とは違う。言語現象を説明できればいいわけで、一つの形に決められているわけではないのだ。不都合だと思えば、自分で書き換えてもよいのである。言語自体も精密機械のようなものではなく、理屈に合わない部分も相当あるわけだから、その不整合な部分も含めて了解しやすい形にまとめたものが良い文法なのだと思う。
 というわけで、ちょっと苦労している。旧仮名遣いのややこしい部分を説明するためのものをめざしているので、やっているうちに旧仮名遣いの曖昧な部分も分かってきたりする。かなり無理のある表記法だと個人的には思うが、実在する方法なので、校閲としてはわきまえておきたいものでもある。それにしても、誰にでも分かるようにきちんと語学的に纏めてくれたもの(「旧仮名遣いの書き方」的な本)が見当たらないのはどういうわけだろう。周辺の議論は沢山あるのに。

文法ノートのこと

 昔から言語の勉強をする時に「文法ノート」というのを作っていて、これはまず文法書をずっと取って置けない(スペースが無い)という理由と、簡単に文法のリファレンスができるものが欲しいという気持ちから作り始めたものである。
 そのうち、文法の分類をなるべく共通にした方がリファレンスが容易であることに気付き、自分なりに文法の共通枠を作るようにして、新しい言語の文法記述を、それに合わせるようにして勉強するようになった。
 そのうちに音声記号を抽象的に表す必要があると思って「抽象的音声記号」を考えだしたり、「接辞グロッサリー」を接辞中の第一子音のアルファベット順に整理する、また変化形から元の形を導き出す「川上り文法」の要素を導入するなど、いろいろ自前で工夫はしてきたつもりである。その他にも細々した工夫はいろいろ考えた。
 そんなことをして作った文法ノートだから、他人が見たらきっと訳が分からないだろうし、気味が悪いと思うかもしれないな、と考えて今まで人にはなるべく見せないようにしてきた。
 しかし最近校閲講座というのをやって、「そういうものはきっと興味を持つだろうから見せてみたら」というふうな助言をされて恐る恐る見せたところ、非常に熱心に見る人がいたので、自分でも意外であった。
 私の文法ノートの作り方が正しい、と主張するつもりは全然ないが、こういった「なるべく共通フォーマットを意識した文法シリーズ」という語学入門叢書などはあってもよい気がする。

膠着語、屈折語と簡単に言うけれど

 言語の形態的類型論で「膠着語」という分類があり、日本語もこれに属する、という定説がある。大筋間違いではないとは思うが、そもそもこの「膠着語」という分類概念が、一般的に信じられているほど明快なものではないのではないか、とこのごろ思うようになってきた。
 というのも、現在苦心惨憺して初歩的文法を学んでいる(というより手探りで理解しようとしている)シュメール語が同様に「典型的な屈折語」として分類されている記述を目にし、ウラル語族・アルタイ語族とも関係があるのではないかという説もあると聞いては、「そうかなあ、うーん……」と唸らないわけに行かないからだ。
 今、入門書に示されている例文などを見ると、シュメール語の場合、動詞に付く接辞というのは大方動詞の前に長々と連なる性質があるように見える。一般的に「膠着語」として例示されるトルコ語や朝鮮語、日本語やモンゴル語、またフィンランド語やハンガリー語などはこの逆で、一部例外はあっても、多く動詞の後ろに連なる性質がある。この違いというのは、実感としてかなり大きなもので、これを一括りに「膠着語」という分類に押し込めてよいのだろうかと感じるのである。「膠着語」という名称の由来を考えれば確かに前と後ろの違いに過ぎない、膠でくっ付けるように、核となる語に接辞が付いているのだから同じ分類でよい、ということになるのだろう。
 しかし、言語の線的性質(前から後ろの一方向に不可逆的に進む)を考えれば、この前後の違いは意外と本質的な違いかもしれないのである。
 シュメール語みたいな接辞の付き方をする他の言語があるだろうかと考えてみると、グルジア語に行き当った。グルジア語も動詞の本体の前に多くの接辞が付く(後にも多少付くが)。まったく関連がないとは言えないかもしれない。私の知識ではこれ以上は何とも言えないが、少なくともこういうタイプの言語は、日本語のようなグループとは別に分類してもよいのではないか(屈折語のサブグループとしてでもよいが)。スワヒリ語などのバントゥー語族もこれに近いかもしれない。
 ついでに言うと、スペインやフランスの一部で話されるバスク語は、この一群の接辞群が動詞本体と切り離されて、文の大まかな構造を示すものとなり、複雑な変化(構成要素も抜き出せないほど一体化してしまった助動詞としての変化)をするようになっている。
 私は詳しくないが抱合語と呼ばれる言語(ナワトル語などを多少齧ったことはあるが)は、恐らくこの接辞群+動詞のグループ(1語を形成する)に、名詞その他の別の核となる語までも潜り込んでしまうのであろうと思う。もうこうなると殆ど短文に近いのではないかと思うが、やはり1語なのである。たぶんこの形成の仕方にもある種のパターンと限度があり、ネイティヴ・スピーカーはその種々の組み合わせを、パターンとして身に付けているのであろうと想像する。上記のシュメール語やグルジア語、バスク語などの母語話者も同様である(だった)と考えられる。ネイティヴでない人間が身に付けるのは大変だろう。

「膠着語」と同様、「屈折語」も曖昧だ。印欧語族のように、接辞の多くが動詞の後に付く「分かりやすい」屈折と、アラビア語のように、語頭・語尾にも接辞が付くのみならず、中心になる動詞部分もその核となる3子音を保持しつつかなりの変化をする、などという複雑な形態を持つ「分かりにくい」屈折がある。
アラビア語以外でも、タガログ語などは文中の主題となる要素(主語、目的語のみならず、副詞的要素である場所、道具、受益者、理由なども)によって動詞が異なる活用をする。(例:Bilhan mo ang bata' ng sapatos.〔その子供のために靴を買え。〕biliは「買う」、bilhanはその変化形(受益者に焦点が当たる時の形)。moは「あなた(主語ではない形)」。bata'は「子供」、sapatosは「靴」。ngは目的語であることを示し、angは主題であることを示す。)
こう見てくると、構文の分類として用いられるS、V、Oの組み合わせによる分類もちょっと怪しくなってくる。なぜならこの分類には、主語、動詞、目的語以外は付随的要素に過ぎない、という前提があるからであり、これではタガログ語などの動詞変化を説明しにくくなるからである。
こうした分類法は、大まかに言語を俯瞰するときにはある程度有効であるが、あまりこれに頼って比較論をするのは危険だろう。やはり言語そのものをよく知ったうえで行わなくてはならないだろう。

正しい、正しくない、ばかりでなく

 NHKの番組を見ていたら、「DNAは安定な物質」という表現が出て来た。
 「安定した物質」ではなく「安定な物質」である。
 「不安定な物質」とは言うが、これは少々妙である。辞書を見る限り「不安定」は形容動詞(不安定だろう、不安定で、不安定だった、不安定だ、不安定な、不安定ならば)だが、「安定」は名詞であり、「安定だ」という形容動詞は存在せず、このような活用形は無い、ということになる。
 これを以て「間違いだ、けしからん」と言うのは簡単だ。しかしこういう表現が通用しているのだとしたら、これはむしろ現代日本語の変化の現われかもしれない。
 以前から言っているように、言語というものは通常想像するような「精緻を極めた体系」などではなく、穴も凸凹も未成熟な部分もある「活動する生命体」である。
 「安定な」に似た表現を探してみると、例えば「トホホな×××」という表現が見つかる。「トホホ」は感動詞に分類される。「トホホだ」という形容動詞は存在しないから、これは形容動詞の連体形語尾「な」を「トホホ」にくっ付けて形容動詞のように振る舞わせた形、と解釈できるのではないか。以前から「エレガントな」「フレッシュな」のように、英語の形容詞に「な」を付けて日本語化する方法は存在する。しかし「エレガントだ」「フレッシュだ」という終止形も存在するから、こちらは従来の日本語文法体系に沿った形と言える。
 しかし「安定な」「トホホな」は、終止形「安定だ」「トホホだ」が今のところ用いられていない以上、むしろ形容動詞の連体形語尾「な」が単独で他品詞を形容詞化(連体形化)する強い機能を帯びた結果と考えられなくはないか。
 この傾向が続くのかどうか、今のところ分からないが、従来の文法体系から外れる形を目にした時に、「間違っている」と考えるのではなく、言語が現状の体系で不足したと感じている部分を補うべく新しいダイナミズムを発揮しているのかもしれない、と発想を変えてみると面白いのではないか。
 言語の見方は一つではない。
プロフィール

井上孝夫

Author:井上孝夫
多言語の学習・研究、多言語読書を長年続けています。著書に新潮新書『世界中の言語を楽しく学ぶ』『その日本語、ヨロシイですか?』あり。マンガ・イラストの別ブログ「スケッチ貯金箱」もやっています。

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