外国語テキストの過剰な注釈

チェーザレ・パヴェーゼの『月と篝火』(La luna e i falò)の原文テキストを読んでいたら、それに付いている注があまりにうるさいので、少しイライラした。
 一々の表現の意味を簡潔に説明するだけならよいのだが、個々の表現にはこれこれの技巧が用いられているとか、こういう比喩にはこういう効果があるとか、別に知りたくもないうるさい解説が山盛りで、どこで注を読むのを切り上げるかに気を使うという、ちょっといただけない注釈になっている。
 よく見たら出版社はEinaudi scuolaとあるので、これはエイナウディ社の教育出版部門なのだろうか。つまりこのテキストは、学生が文学を勉強するためのものらしいと気が付いた。だからこんなに懇切丁寧というか過剰な説明が付いていたのだ、と納得した。
 しかしこんな教科書で教育されて文学が好きになるものだろうか。日本語の古典教育でもそうだが、最初から文章技術や文法の詳細な説明を聞かされたらうんざりして嫌いになるのがオチのような気がする。最初は意味が了解できる程度の説明で、とにかく作品が味読できることを第一に、良いものをとにかく読むということが肝心だと思うのだが。
 とにかくこの本は、注は適当に流して読んでいくことにする。外国語の本選びも意外と難しい。
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本当に読みたいもの、読んで欲しいもの

 岩波文庫の『太平記』第二巻を読み終える。後醍醐天皇を戴く新田義貞らが、足利尊氏を一時追い詰めるところまで。第三巻には楠正成・正行父子のエピソードなどがあって楽しみである。
外国語ばかりやっているから、時々日本の古典も読むようにしている。さすがに母語だから読むのは早いが、最近、もし外国人が日本語を学んで読んでいるとしたら、今読んでいる作品は、その外国人が苦労して読むだけの価値があるものだろうか、と考えたりする。
例えば『平家物語』の有名なエピソード(美少年の武将・平敦盛を心ならずも殺さねばならなかった熊谷直実の話や、平忠度が討たれた後その箙〔えびら〕の中に潜ませた「行き暮れて木〔こ〕の下蔭を宿とせば花や今宵の主〔あるじ〕ならまし」の歌が見つかる話など)は日本語を学んだ外国人には是非日本語で読んでもらいたいと思うが、『平家物語』全体の歴史的推移を読まなければ意味は無い、とは私は考えない。前後のシチュエーションを最低限説明して、突出した名場面だけ原文で味わってもらう。それでも分かるものは充分分かってもらえるのではないか。最高の文学的表現は、決して重厚長大複雑なものではなく、簡明・明解で分かりやすいものだと私は思っているので、本当に核となるような精選したものをアンソロジーとして編んであげればよいのだと思う。
そう考えてみると、多言語読書の作品選びも、万巻の書を読みつくすというイメージよりも、本当に読むべき価値のある作品(およびその部分)を嗅ぎ分け、そういうものをじっくり味わうように何度も読む、という方が望ましいのかもしれない。そのための文学案内(血の通った)ものが必要だ。客観的・学術的な文学概論だけでは抜けてしまうもの。それこそが知りたいのである。

読書計画の原則?

 読みかけの原文講読がいくつかあって、今後これらをどうしていくか考えなくてはならない。いくら多言語読書といっても、時間は限られるわけだから、作品を選別しなくてはならない。それは前から分かっていて、なるべく外れの少ない古典的作品に集中しよう、とは考えているが、いくつも手を出しているとどれも進みが遅い。
 今、八作品ぐらいを並行して読んでいるが(多すぎる)、それぞれに割ける時間が少なすぎて捗らない。困ったものだ。少し整理しなくては。

① 古典作品として作品を読みたいもの。
② マイナー言語の進んだ読解練習として読みたいもの。
③ 文法を学んだ少数言語の読解練習入門。
④ 作品全体を読みたいというより、その作品世界の感触に少し触れてみたいもの。
⑤ 資料や話題・知識の仕入れ元として読みたいもの。

読みたいものはこんな風に分類できるだろうか。
これらのうち、①と②は時間がかかる。③と④は細切れでやってもよいもの。⑤は成り行き次第のもの。計画的に読むのは①と②、③くらいか。④と⑤は気分や必要に応じて、ということになる。特に④の手加減が重要だろう。たとえばマルコ・ポーロの『東方見聞録』だとか、ジョルジョ・ヴァザーリの『画家・彫刻家・建築家列伝』だとか、中高ドイツ語で書かれた『ニーヴェルンゲンの歌』だとか、全部を読むのは大変だが、部分的に読むだけでも面白かったり、雰囲気が味わえそうなものは思い切ってここに分類してみる。異論はあるだろうが、読むのは私なので、私の好みでバッサリとやるしかない。①に入るか④に入るか、は自分に正直になって決めるしかないだろう。シェークスピアなどはやはり①だろう。ピランデッロも①だ。ゾラなどもいくつかの作品は①にしたいが、どうかなあ。気になる作家は、勘で選んだ作品をせめて一つ、ということになりそうである。①に入る作品の一つでもある作家は、私の好みの作家ということになるのかもしれない。厭なら途中でやめるのもあり、だ。そうなると④に分類される(しかも結果的に自分の好みには残念ながら合わなかった例)ことになるだろう。
②、③はそういう本に巡り合うかどうか、運次第だ。
こう考えると、計画的な部分より運命次第の部分の方が多いような気もする。でもこれで良いのだろう。時間は限られている。全てを自分で決めるのはつらい。神様に決めてもらう方が気楽というものだ。

『樹木』ふたたび

 またもやヘッセの『樹木』にいい文章を見つけた。「栗の木」という文章中の一節である。
 ヘッセは若いころ、シュヴァーベンラントにある、栗の木に埋もれた小さな町に8日間ほど滞在した。その町は城の周りに乾いた広大な壕が巡らされ、さらにその周囲を道が取り囲む。その片側には家並の低い、古い家々が立ち並び、もう片側には壕を見下ろすように多数の栗の大木が茂っている。その壕にある宿屋に彼は泊まった。そしてこう書く。

…Das Schönste war, daß ich am Graben wohnte, in der Wirtschaft zum »Blonden Adler«, und die ganze Nacht die vielen blühenden Kastanien, rote und weiße, vor meinem Fenster hatte.
(…最も素晴らしかったのは、「ブロンドの鷲」という名の宿屋に泊まり、たくさんの栗の花が窓の外に赤く白く咲き乱れるのを、夜通しこの壕(ほり)の中で目にしていたことである。)

 しかし旅する若きヘッセは、夏の夜の暑さゆえにあまり眠ることができない。蚊が遠慮会釈なくまとわりつく。体に酢をなすり込み〔このような酢の使い方をしたのだろうか?〕、灯りを点けずに煙草をくわえ、窓際に座る。

Was für höchst wunderliche Abende und Nächte! Sommerduft und leichter warmer Straßenstaub, Mückengeschwirr und feine, elektrische Schwüle in der Luft verteilt und heimlich zuckend.
Jetzt, nach allen den Jahren, blicken mich diese warmen Abende am Kastaniengraben so köstlich und ergreifend an wie eine Insel im Leben, wie ein Märchen und wie eine verlorene Jugend. Sie schauen so tief und selig und flüstern so betörend süß und heiß und machen so wunderbar traurig wie die Sage vom Paradies und wie das verschollene Sehnsuchtslied von Avalun.
(何とまた奇妙な宵と夜であろうか! 夏の香りと、通りから立ちのぼる軽くて暖かい土埃、蚊の鳴く声、そしてかすかな、電気を帯びたような蒸し暑さが空気中に広がり、ひそかに煌めいている。
 今、人生の年月が過ぎ去った後で、栗の木の壕で過ごしたこの暖かな宵が、愉しくも胸打つものとして私を見つめている。それはまるで人生の中の一つの島のようであり、おとぎ話、失われた青春のようでもある。それは深く至福に満ちた眼差しで私を見つめ、幻惑するように甘やかにそして熱く私にささやきかけ、不思議なほど私を悲しい気持ちにさせる。それはまるで楽園の伝説のようであり、西の海に浮かぶ幸福の島アヴァロンへの過ぎ去った憧憬の歌のようでもある。)

「電気を~」とあるのは、向かいにある職人たちの工場との関わりでそういう表現になったものか。
 いずれにせよ、ここには若さと夢と老境と諦念が混然一体となった表現がある。こんな文章を、他の言語でも読んでみたいものである。

教わることは教わろう

『デンマーク語で四季を読む』(田辺欧・大辺理恵編著 溪水社)という本を少し前に買ったまま本棚に置いてあったのを、引っ張り出して眺める。
「デンマーク文化を学ぶための中・上級テキスト集」という副題の通り、ここにはデンマークの作家や詩人の作品、デンマークの社会に関するジャーナリズムの記事や解説など、多彩な文章が収められている。特に文学者の文章が多く、一種デンマーク文学の案内書のような趣を呈している。
 こういう本が他の少数言語でもあったらなあ、と思う。多言語読書を生涯の楽しみにしようと思っても、読むべき文章の選択は膨大で途方に暮れる。このようなアンソロジーはそのための手ほどきにもなり、優れた編纂者のものであれば、そこで素晴らしい文章に出会う確率も高い。人生の時間には限りがある。そういう面で、優れた専門家の意見や選択に頼るのも賢いやり方だろう。全て独力で出来るものではないのである。
 冒頭のBenny Andersenという現代デンマークの国民的詩人の作品を読んでみる。日本の谷川俊太郎氏のような存在だろうか。「難解な言い回しは鳴りを潜めている」と解説にあったが、読んでみるとやはり解釈に悩むところもある。しかし全体の調子は平明で、好感が持てる。この本を読まなければおそらく出会えなかった詩人だろう。これでこの本に対する信頼もぐっと増した。先達に頼る、「教わることは素直に教わる」ことは重要なのだ。
プロフィール

井上孝夫

Author:井上孝夫
多言語の学習・研究、多言語読書を長年続けています。著書に新潮新書『世界中の言語を楽しく学ぶ』『その日本語、ヨロシイですか?』あり。マンガ・イラストの別ブログ「スケッチ貯金箱」もやっています。

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