英文に一区切り

 ある用途のために英文の良い短編小説を探していたのだが、ぺーパーバックスの短編小説名作選とかO.ヘンリー短編集の作品をいくつか読んでみて、これはと思うものがなかなか見つからなかった。自分の感性とぴったり合う作品、というのはなかなか巡り合えないものなのかもしれない。埒があかないので、その前に読んだディケンズの掌編を選ぶことにした。ちょっと古いかもしれないけれども、ここには人生の手触りがはっきりとあって、私の好みにぴったりだ。
 世の中に文芸作品は数多いが、年月を越えて生き残る作品は本当に少ないのかもしれない、と実感するような経験だった。その時の文学の潮流だとか、社会的状況だとか、その他さまざまな要素が夢のように消えてしまった後になお輝きを放つ作品というのは、どのような作品なのだろう。それは作家自身の予想とはどれくらい食い違ってしまうものなのだろうか。
 それはともかく、英語の件が一区切りついたので、その後にダンテのラテン語「俗語論」を入れる。イタリア語との対訳。イタリア語の勉強にもなり一石二鳥である。時間は掛かるかもしれないが、言語論でもあるので私には有益なものだと思っている。
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『太平記』読了

岩波文庫の『太平記』全6巻を読み終わった。長かったが、面白かった。一番印象に残っているのはやはり有名な楠木正成(くすのきまさしげ)・正行(まさつら)父子の桜井の別れの場面である。
京へ攻め上って来る足利尊氏軍を正面から迎え討ったら必ず負けると考えた正成が、一旦天皇を都から避難させ、尊氏軍を京に閉じ込めて兵糧攻めにする作戦を進言するものの、それが帝位を軽んじる行動だと批判する諸卿の意見に押された天皇が認めなかったため、正成は死を覚悟して、桜井の宿でまだ十一歳の息子・正行に諭すのである。
「今生(こんじょう)にて汝(なんじ)が顔を見ん事、これを限りと思ふなり」
この世でお前の顔を見るのは、これが最後だと思う、という言葉を息子に伝える父の心情、そしてそれをかしこまって聞いている十一歳の息子。武士というのはこういう人たちだったのだ。
後に父親の遺骸を見た正行が、悲しみのあまり自害しようとすると、母が激しく諫(いさ)める。父が討ち死にしても、正行は一族を助け、折来たらば「今一度義兵を挙げ、朝敵を亡ぼして、君をも安泰になし奉り、父が遺恨をも散じ、孝行の道にも備へよとてこそ残し置きし身なるを」いつの間にか忘れ去って目の前の嘆きに心を奪われ、「行末を顧みず、父の恥を雪(すす)がず、われになほ愁(う)き目をみせんとする」情けない幼さよ、と責める。そして、どうしても自害すると言うのなら、「愁き目を重ねて見せんより、われを先(ま)づ殺せや」と言って悶え焦がれる。かろうじて正行は自害を思いとどまるのである。この激しさにも我々は驚くのである。
色々な意味で読んでよかったと思う。
さてその次に何を読もうか、と考えて選んだのが、やはり岩波文庫の『与話情浮名横櫛(よはなさけうきなのよこぐし)』である。「切られ与三(よさ)」の名で知られる歌舞伎世話狂言である。昔、春日八郎が『お富さん』という歌を流行らせたが、これもそれから材を取っている。といっても私は漠然としか知らないのでいい機会だと思ってこれを選んだ。残念ながら歌舞伎を見に行く習慣が無いので、台本を読んでその代わりにする。いずれ見る機会もあるかもしれない。
日本の古典も細々とだが読み続けようと思う。

外国語テキストの過剰な注釈

チェーザレ・パヴェーゼの『月と篝火』(La luna e i falò)の原文テキストを読んでいたら、それに付いている注があまりにうるさいので、少しイライラした。
 一々の表現の意味を簡潔に説明するだけならよいのだが、個々の表現にはこれこれの技巧が用いられているとか、こういう比喩にはこういう効果があるとか、別に知りたくもないうるさい解説が山盛りで、どこで注を読むのを切り上げるかに気を使うという、ちょっといただけない注釈になっている。
 よく見たら出版社はEinaudi scuolaとあるので、これはエイナウディ社の教育出版部門なのだろうか。つまりこのテキストは、学生が文学を勉強するためのものらしいと気が付いた。だからこんなに懇切丁寧というか過剰な説明が付いていたのだ、と納得した。
 しかしこんな教科書で教育されて文学が好きになるものだろうか。日本語の古典教育でもそうだが、最初から文章技術や文法の詳細な説明を聞かされたらうんざりして嫌いになるのがオチのような気がする。最初は意味が了解できる程度の説明で、とにかく作品が味読できることを第一に、良いものをとにかく読むということが肝心だと思うのだが。
 とにかくこの本は、注は適当に流して読んでいくことにする。外国語の本選びも意外と難しい。

本当に読みたいもの、読んで欲しいもの

 岩波文庫の『太平記』第二巻を読み終える。後醍醐天皇を戴く新田義貞らが、足利尊氏を一時追い詰めるところまで。第三巻には楠正成・正行父子のエピソードなどがあって楽しみである。
外国語ばかりやっているから、時々日本の古典も読むようにしている。さすがに母語だから読むのは早いが、最近、もし外国人が日本語を学んで読んでいるとしたら、今読んでいる作品は、その外国人が苦労して読むだけの価値があるものだろうか、と考えたりする。
例えば『平家物語』の有名なエピソード(美少年の武将・平敦盛を心ならずも殺さねばならなかった熊谷直実の話や、平忠度が討たれた後その箙〔えびら〕の中に潜ませた「行き暮れて木〔こ〕の下蔭を宿とせば花や今宵の主〔あるじ〕ならまし」の歌が見つかる話など)は日本語を学んだ外国人には是非日本語で読んでもらいたいと思うが、『平家物語』全体の歴史的推移を読まなければ意味は無い、とは私は考えない。前後のシチュエーションを最低限説明して、突出した名場面だけ原文で味わってもらう。それでも分かるものは充分分かってもらえるのではないか。最高の文学的表現は、決して重厚長大複雑なものではなく、簡明・明解で分かりやすいものだと私は思っているので、本当に核となるような精選したものをアンソロジーとして編んであげればよいのだと思う。
そう考えてみると、多言語読書の作品選びも、万巻の書を読みつくすというイメージよりも、本当に読むべき価値のある作品(およびその部分)を嗅ぎ分け、そういうものをじっくり味わうように何度も読む、という方が望ましいのかもしれない。そのための文学案内(血の通った)ものが必要だ。客観的・学術的な文学概論だけでは抜けてしまうもの。それこそが知りたいのである。

読書計画の原則?

 読みかけの原文講読がいくつかあって、今後これらをどうしていくか考えなくてはならない。いくら多言語読書といっても、時間は限られるわけだから、作品を選別しなくてはならない。それは前から分かっていて、なるべく外れの少ない古典的作品に集中しよう、とは考えているが、いくつも手を出しているとどれも進みが遅い。
 今、八作品ぐらいを並行して読んでいるが(多すぎる)、それぞれに割ける時間が少なすぎて捗らない。困ったものだ。少し整理しなくては。

① 古典作品として作品を読みたいもの。
② マイナー言語の進んだ読解練習として読みたいもの。
③ 文法を学んだ少数言語の読解練習入門。
④ 作品全体を読みたいというより、その作品世界の感触に少し触れてみたいもの。
⑤ 資料や話題・知識の仕入れ元として読みたいもの。

読みたいものはこんな風に分類できるだろうか。
これらのうち、①と②は時間がかかる。③と④は細切れでやってもよいもの。⑤は成り行き次第のもの。計画的に読むのは①と②、③くらいか。④と⑤は気分や必要に応じて、ということになる。特に④の手加減が重要だろう。たとえばマルコ・ポーロの『東方見聞録』だとか、ジョルジョ・ヴァザーリの『画家・彫刻家・建築家列伝』だとか、中高ドイツ語で書かれた『ニーヴェルンゲンの歌』だとか、全部を読むのは大変だが、部分的に読むだけでも面白かったり、雰囲気が味わえそうなものは思い切ってここに分類してみる。異論はあるだろうが、読むのは私なので、私の好みでバッサリとやるしかない。①に入るか④に入るか、は自分に正直になって決めるしかないだろう。シェークスピアなどはやはり①だろう。ピランデッロも①だ。ゾラなどもいくつかの作品は①にしたいが、どうかなあ。気になる作家は、勘で選んだ作品をせめて一つ、ということになりそうである。①に入る作品の一つでもある作家は、私の好みの作家ということになるのかもしれない。厭なら途中でやめるのもあり、だ。そうなると④に分類される(しかも結果的に自分の好みには残念ながら合わなかった例)ことになるだろう。
②、③はそういう本に巡り合うかどうか、運次第だ。
こう考えると、計画的な部分より運命次第の部分の方が多いような気もする。でもこれで良いのだろう。時間は限られている。全てを自分で決めるのはつらい。神様に決めてもらう方が気楽というものだ。
プロフィール

井上孝夫

Author:井上孝夫
多言語の学習・研究、多言語読書を長年続けています。著書に新潮新書『世界中の言語を楽しく学ぶ』『その日本語、ヨロシイですか?』あり。マンガ・イラストの別ブログ「スケッチ貯金箱」もやっています。

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