新鮮な認識

 マラガシ語を調べていたら、面白い表現を見つけた。
mamaky teny(ママキ・テニ、「読む」)という表現なのだが、mamakyが「壊す」、tenyが「言葉」で、英語に直すならばbreak wordsとでもなるだろうか。「言葉を壊す」とは、「書かれた言葉を噛み砕く」といったニュアンスであろうかと思う。こういう表現を見ると、ハッとする。日本語や他の言語ではしない発想だろう。確かに、読むという行為にはこういう感覚があるな、と思うが、この表現を知るまでは意識したことがなかった。
こういうところが、多言語を学習する面白さの一つである。外界に対するいろいろな認識の仕方を知ること、それは新鮮でもあり、自らの認識の壁に風穴をあけるものでもある。
以前、タイ語で「蝶」のことをผีเสือ[phĭi sɯ̂a](phĭi=お化け、 sɯ̂a=服)と言い、これは「服のお化け」ということになるのだ、ということを知って、美しい柄の入った服がお化けとなって飛んでいるというイメージに感嘆したことを思い出した。こういう表現に逢うと、確かに物事への認識が変わる気がする。
言語を学ぶ、というのはただ実用に供するためだけではない、という感を深くするものである。
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辞書の価値判断

 バリ語の会話集の調べをしていて、以前購入したバリ語―英語辞典を使っているのだが、この辞書のアルファベット表記はバリ文字(今は殆ど使われていないらしい)を文字転写したものらしく、会話集のアルファベット表記と若干食い違う。たとえば母音の前には基本的にhが表記される。最初は少し戸惑うが、慣れればそれほどでもない。しかしバリ語にはその内部に、階層による語彙や表現の違いがあって(日本語の敬語みたいなものを想像してもらえばそう遠くはない)、これをマスターするのはバリ社会に暮らさないと無理だろうと思う。インドネシア語からの借用も多そうである。バリ研究者以外にとっては、むしろ言語のヴァリエーションを知るための良いサンプル、と捉えた方が良いように思う。
 こんな風に少数言語の辞書を始めて使って見ると、一々の辞書の良し悪しや有用性は、使って見なければ分からないものだということに改めて気づかされる。買ってあるからOK、と思っていては駄目なのである。新しい辞書を買ったからと言って古い辞書がそう簡単に捨てられないのは、この価値判断が難しいからということもある。辞書整理は難しい。大きな書庫があれば、捨てずに全部持っていたいのだが。

ウクライナ語を聴き直し

 『カンボジア語会話練習帳』の聴き直しがもうすぐ終わるので、次に聴くものを考える。
 『ニューエクスプレス・ウクライナ語』にしよう。
考えてみると、これを以前聴こうとして途中まで進んだところで、東日本大震災があったのだった。続いて福島第一原発の事故。極度の不安の中、チェルノブイリを思い出してしまうのでウクライナ語の聴き込みを中断してそのまま6年経ってしまった。
その間にロシアのクリミア半島侵攻、東ウクライナでの戦闘など、ウクライナにとっては厳しい状況が展開した。現在もその状態は続いている。何かウクライナを見捨ててしまったような気がしていた。もちろん、ウクライナにとっては何の意味もないことだけれども。
その間、仕事ではウクライナ語を調べる必要も出て来た。もっとも単語や発音レベルの単純な事柄であったが。それには現在の政治状況も反映されていて、ウクライナの地名をウクライナ語形にするかロシア語形にするか迷う、というようなこともあった(例えばロシア語でハリコフという都市はウクライナ語ではハルキウと呼ばれるのだが、これをどちらにするか、といったような)。ソ連時代にはすべてロシア語名にしていたのだが、ソ連崩壊以後は地名表記をどうするか、誰も基準を示していないのである。
政治と語学は、思ったより関連が深い。中国や韓国と決して良好とは言えない関係にある現在、それらの語学を学ぶ人たちはある程度意志が強くないと挫けてしまうだろう。語学は習熟に長い時間がかかるから、一々の政治状況に反応して学習にブレーキがかかっていたのでは上達が望めない。学習者は、政治的発言よりも、具体的なその国の人たちの顔を思い描いて学習するしかない。
そんなことを考えてみると、私がウクライナ語の学習を中断したのも自分の意志が弱かったためのような気もする。内心ウクライナに謝りながら聴くことにしよう。ウクライナの平安も祈りつつ。

現状あれこれ

『フィンランド語トレーニングブック』(白水社)調べ完了。これはいずれ繰り返し読まなければいけない。フィンランド語を読めるようになるためには、この本の学習は必須だろうと思う。
 チェロキー語もとりあえず終えた。先にも書いたように、これは文字練習帳なのだけれども、CDが付いている。これもいずれ聴いてみようと思う。
 中国の少数民族の言語の学習が滞っているので気になっているが、もう少しすればそれを入れる余裕も出て来るだろう。何事も一気に、とは行かない。学習が回転すると、つい無理やり予定を詰め込み過ぎるきらいがあるので、ここは自分の年齢も考えて、あまり無理せずやって行くつもりである。
 校閲講座の準備も順調に進んでいる。もっとも1クール済ませた後なので、基本は固まっている。微調整だからそんなにあせらない。ちょっと絵を入れ替える。記述を少し変更して、新しい問題を作る(これが一番大変)。人前で話すことにも少しは慣れたけれど、やはり得意とは言えない。講演をし慣れた人は緊張などしないのだろうか。それとも毎回緊張し、それでも土壇場の度胸みたいなものが据わってくるのだろうか。おそらく後者なのではないだろうか。楽々できるようになるとは思わないほうがいいのだろう。努力はしなくてはならない、ということでしょうね。
 原書テキストを読む時間が少なくなっているのが、現在の悩みどころである。

外国語の専門用語と基礎力について

 年越し前後の暇な時間を使って、頼まれていたスペイン語の翻訳を仕上げた。相続関係の用語(資産の類別やその審査に関わるもの)が頻出するもので、ちょっと苦労した。
 このあいだNHKの朝ドラで、主人公たちの商売を外人相手にひろげようとして、経理のことをアメリカ人に頼もうとしたら、英語の好きな登場人物が経理の専門的な言い回し(close the books〔決算のために帳簿を締め切る〕)が分からなくてアメリカ人から「話にならない」と言われ落ち込む、というシーンがあった。このシーンを見てどう思うかは人によりけりだろうが、私などは切実に「気の毒だなあ」と思う。専門分野の言い回しなどは、その実務に携わっていなければ理解し難いものが多い。簡単な単語を使っているからすぐ分るというものでもないし、やはり特別それに備えた勉強をしなければ対応はできないだろう。しかしここでの問題は、「事柄自体の理解と、それに対応する英語表現を身に付けているかどうか」である。これは一般的に言う「語学力が高い」というのと少しニュアンスが違う。経理に関する会話を難なくこなせる人が、芸術や歴史や文学や、日常の多様な話題にも苦労を覚えず話せるのか、といえばそうとは限らないだろう。これは学者が英語で論文を発表し、外国の学者と専門分野の話を交わせるからと言って、その他のシチュエーションでもネイティブと対等の会話ができるとは限らないのと同じである。以前、海外で講義などもする高名な学者が書いた文章でax(斧)とox(牛)を取り違えていてどうにも文意が通じない、という現象に、仕事で遭遇したことがある。確かにその人の専門分野で斧や牛が登場する可能性は低いものだが、だからと言ってこれらが基礎的語彙ではない、とは言えないだろう。あらゆる分野に即座に対応する英語力、などというものは早々身に付くものではないだろう。基礎的実力がある人でも、専門用語で躓くのは致し方ないのである。このアメリカ人の対応も、ちょっとどうかと思う。分からなければ遠回しにでも説明する、というぐらいの忍耐心はないのか。介護のためにインドネシアから人を呼んでおいて、「褥瘡(じょくそう)」などという語彙が理解できないから失格、と言っている日本人といい勝負である。自分の方が1センチも歩み寄らずに、他者に対して完璧を求めるという、あんまり感心できない態度であると思う。
 こんなことを思ったのも、スペイン語の文書の用語一つで頭を抱えていた直後だからかもしれない。とにかく、通訳や翻訳というのは大変な仕事である。きちんと訳してくれるプロフェッショナルには敬意を持つべきである。
プロフィール

井上孝夫

Author:井上孝夫
多言語の学習・研究、多言語読書を長年続けています。著書に新潮新書『世界中の言語を楽しく学ぶ』『その日本語、ヨロシイですか?』あり。マンガ・イラストの別ブログ「スケッチ貯金箱」もやっています。

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