文法が分からないストレス

『シュグニー語基礎語彙集』(大学書林)の後ろに載っている小文法を、文法ノートに纏める作業が終了。シュグニー語は印欧語族のイラン語派に属する言語で、ペルシャ語やパシュトー語などと同じグループの言語である。パシュトー語と同じ北東言語群に属すると書かれているが、そんなに近いかなあ。文法ノートで比較しても、そっくりというわけでもなさそうだ。
 一番驚いたのが、過去を示す人称接尾辞が、通常考えられるように動詞に付くとは限らず、主語となる代名詞の後ろに付くことが普通にある、という現象だった。もっとも動詞も過去幹という形を取っているので、むしろこれは過去時制における人称表示の機能を担っているもの、と考えるべきかもしれない。ただしそれが人称代名詞と機能がダブっている点が独特である。
 インド・イラン語派には、完了形において受動文的な構造を示すものがいくつかある(ヒンディー語やパシュトー語、クルド語など)。この現象と何らかの関連があるのかもしれない。
 こんな風に、少数言語を学んでいくと、時に新しい言語的知見のようなものが得られるのは面白いことである。しかし文法の小スケッチ的なものを纏めると、記述されていない部分も残り気になる(シュグニー語の場合も、関係代名詞については述べられていなかった。パシュトー語には関係代名詞が存在せず、接続詞ciを使って表現する。ペルシャ語やクルド語には関係代名詞が存在する。語彙集の方を探してもそれらしいものが見つからなかったので、これは空欄にしておくしかない)。文法が面倒くさいというのはよく聞く声だけれども、文法が知りたくても分からない、というストレスもあるのである。ネット情報でもよいから探してみるつもり。
スポンサーサイト

高山病やら校閲講座やら

 夏休みに立山・黒部へ旅行をしたらなんと高山病にかかってしまい、嘔吐したりして大変だった。ちょっと体調も崩してしまい、ブログの更新も滞ってしまった。帰ったすぐ後に会社の校閲講座もあって余裕がなかったのである。
 講座も満1周年で、7月からまた新しいクールに入った。この講座の最後に、「世界の歌を味わおう」というコーナーを設けて、自分でチョイスした世界の歌を聴いてもらっている。原歌詞とその翻訳を見て聴いてもらう。もちろんきちんと必要な申請はしている。というわけで、そのための翻訳(これ自体はとても面白い)をしていると、多言語学習をしてきてよかったなと思う。歌一つだけ取っても、言葉の意味が分かるのと分からないのとでは大違いである。そしてたとえゆっくりとであっても、その歌詞を直接了解できた時の味わいというものは、機械翻訳やAIでは肩代わりの利かないものである。その喜びを少しでも味わってもらえれば、言葉というものに対する認識を深める一助となってくれないか、という期待がある。校閲は日本語の枝葉末節的な断片的知識の集積だけで出来るものではない。言語というものにたいする自分なりの洞察が無いと、適切な疑問提出も出来ないのではないかと思う。
 あとどれくらい続けることになるか自分でも分からないが、テキストにイラスト等を入れて分かりやすく楽しいものにするなど、自分で出来る最大限の努力はしているつもりである。人前で話すなど決して得意なことではないが、縁あって任されたことなので暫くは頑張ってみようと思う。

新鮮な認識

 マラガシ語を調べていたら、面白い表現を見つけた。
mamaky teny(ママキ・テニ、「読む」)という表現なのだが、mamakyが「壊す」、tenyが「言葉」で、英語に直すならばbreak wordsとでもなるだろうか。「言葉を壊す」とは、「書かれた言葉を噛み砕く」といったニュアンスであろうかと思う。こういう表現を見ると、ハッとする。日本語や他の言語ではしない発想だろう。確かに、読むという行為にはこういう感覚があるな、と思うが、この表現を知るまでは意識したことがなかった。
こういうところが、多言語を学習する面白さの一つである。外界に対するいろいろな認識の仕方を知ること、それは新鮮でもあり、自らの認識の壁に風穴をあけるものでもある。
以前、タイ語で「蝶」のことをผีเสือ[phĭi sɯ̂a](phĭi=お化け、 sɯ̂a=服)と言い、これは「服のお化け」ということになるのだ、ということを知って、美しい柄の入った服がお化けとなって飛んでいるというイメージに感嘆したことを思い出した。こういう表現に逢うと、確かに物事への認識が変わる気がする。
言語を学ぶ、というのはただ実用に供するためだけではない、という感を深くするものである。

辞書の価値判断

 バリ語の会話集の調べをしていて、以前購入したバリ語―英語辞典を使っているのだが、この辞書のアルファベット表記はバリ文字(今は殆ど使われていないらしい)を文字転写したものらしく、会話集のアルファベット表記と若干食い違う。たとえば母音の前には基本的にhが表記される。最初は少し戸惑うが、慣れればそれほどでもない。しかしバリ語にはその内部に、階層による語彙や表現の違いがあって(日本語の敬語みたいなものを想像してもらえばそう遠くはない)、これをマスターするのはバリ社会に暮らさないと無理だろうと思う。インドネシア語からの借用も多そうである。バリ研究者以外にとっては、むしろ言語のヴァリエーションを知るための良いサンプル、と捉えた方が良いように思う。
 こんな風に少数言語の辞書を始めて使って見ると、一々の辞書の良し悪しや有用性は、使って見なければ分からないものだということに改めて気づかされる。買ってあるからOK、と思っていては駄目なのである。新しい辞書を買ったからと言って古い辞書がそう簡単に捨てられないのは、この価値判断が難しいからということもある。辞書整理は難しい。大きな書庫があれば、捨てずに全部持っていたいのだが。

ウクライナ語を聴き直し

 『カンボジア語会話練習帳』の聴き直しがもうすぐ終わるので、次に聴くものを考える。
 『ニューエクスプレス・ウクライナ語』にしよう。
考えてみると、これを以前聴こうとして途中まで進んだところで、東日本大震災があったのだった。続いて福島第一原発の事故。極度の不安の中、チェルノブイリを思い出してしまうのでウクライナ語の聴き込みを中断してそのまま6年経ってしまった。
その間にロシアのクリミア半島侵攻、東ウクライナでの戦闘など、ウクライナにとっては厳しい状況が展開した。現在もその状態は続いている。何かウクライナを見捨ててしまったような気がしていた。もちろん、ウクライナにとっては何の意味もないことだけれども。
その間、仕事ではウクライナ語を調べる必要も出て来た。もっとも単語や発音レベルの単純な事柄であったが。それには現在の政治状況も反映されていて、ウクライナの地名をウクライナ語形にするかロシア語形にするか迷う、というようなこともあった(例えばロシア語でハリコフという都市はウクライナ語ではハルキウと呼ばれるのだが、これをどちらにするか、といったような)。ソ連時代にはすべてロシア語名にしていたのだが、ソ連崩壊以後は地名表記をどうするか、誰も基準を示していないのである。
政治と語学は、思ったより関連が深い。中国や韓国と決して良好とは言えない関係にある現在、それらの語学を学ぶ人たちはある程度意志が強くないと挫けてしまうだろう。語学は習熟に長い時間がかかるから、一々の政治状況に反応して学習にブレーキがかかっていたのでは上達が望めない。学習者は、政治的発言よりも、具体的なその国の人たちの顔を思い描いて学習するしかない。
そんなことを考えてみると、私がウクライナ語の学習を中断したのも自分の意志が弱かったためのような気もする。内心ウクライナに謝りながら聴くことにしよう。ウクライナの平安も祈りつつ。
プロフィール

井上孝夫

Author:井上孝夫
多言語の学習・研究、多言語読書を長年続けています。著書に新潮新書『世界中の言語を楽しく学ぶ』『その日本語、ヨロシイですか?』あり。マンガ・イラストの別ブログ「スケッチ貯金箱」もやっています。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード