辞書の価値判断

 バリ語の会話集の調べをしていて、以前購入したバリ語―英語辞典を使っているのだが、この辞書のアルファベット表記はバリ文字(今は殆ど使われていないらしい)を文字転写したものらしく、会話集のアルファベット表記と若干食い違う。たとえば母音の前には基本的にhが表記される。最初は少し戸惑うが、慣れればそれほどでもない。しかしバリ語にはその内部に、階層による語彙や表現の違いがあって(日本語の敬語みたいなものを想像してもらえばそう遠くはない)、これをマスターするのはバリ社会に暮らさないと無理だろうと思う。インドネシア語からの借用も多そうである。バリ研究者以外にとっては、むしろ言語のヴァリエーションを知るための良いサンプル、と捉えた方が良いように思う。
 こんな風に少数言語の辞書を始めて使って見ると、一々の辞書の良し悪しや有用性は、使って見なければ分からないものだということに改めて気づかされる。買ってあるからOK、と思っていては駄目なのである。新しい辞書を買ったからと言って古い辞書がそう簡単に捨てられないのは、この価値判断が難しいからということもある。辞書整理は難しい。大きな書庫があれば、捨てずに全部持っていたいのだが。
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ウクライナ語を聴き直し

 『カンボジア語会話練習帳』の聴き直しがもうすぐ終わるので、次に聴くものを考える。
 『ニューエクスプレス・ウクライナ語』にしよう。
考えてみると、これを以前聴こうとして途中まで進んだところで、東日本大震災があったのだった。続いて福島第一原発の事故。極度の不安の中、チェルノブイリを思い出してしまうのでウクライナ語の聴き込みを中断してそのまま6年経ってしまった。
その間にロシアのクリミア半島侵攻、東ウクライナでの戦闘など、ウクライナにとっては厳しい状況が展開した。現在もその状態は続いている。何かウクライナを見捨ててしまったような気がしていた。もちろん、ウクライナにとっては何の意味もないことだけれども。
その間、仕事ではウクライナ語を調べる必要も出て来た。もっとも単語や発音レベルの単純な事柄であったが。それには現在の政治状況も反映されていて、ウクライナの地名をウクライナ語形にするかロシア語形にするか迷う、というようなこともあった(例えばロシア語でハリコフという都市はウクライナ語ではハルキウと呼ばれるのだが、これをどちらにするか、といったような)。ソ連時代にはすべてロシア語名にしていたのだが、ソ連崩壊以後は地名表記をどうするか、誰も基準を示していないのである。
政治と語学は、思ったより関連が深い。中国や韓国と決して良好とは言えない関係にある現在、それらの語学を学ぶ人たちはある程度意志が強くないと挫けてしまうだろう。語学は習熟に長い時間がかかるから、一々の政治状況に反応して学習にブレーキがかかっていたのでは上達が望めない。学習者は、政治的発言よりも、具体的なその国の人たちの顔を思い描いて学習するしかない。
そんなことを考えてみると、私がウクライナ語の学習を中断したのも自分の意志が弱かったためのような気もする。内心ウクライナに謝りながら聴くことにしよう。ウクライナの平安も祈りつつ。

校閲のイベントにて

 土曜日に「本の場所」という、本にまつわるイベント企画に招待され、現校閲部長と共に校閲についてお話をさせて頂いた。校閲部の新旧部長が出るという、一見いかめしそうな看板とは裏腹の、校閲の仕事にまつわるとりとめもない雑談をしたわけだったが、皆さんがとても真剣に耳を傾けて下さったおかげで、どうにか無事終了できた。
 出版という、最先端でもなくアナログの塊みたいな職種に興味を持たれる方が相当数いることに、意外な気持ちと共にちょっとホッとする感情も持ったりする。
 デジタル技術が発展したその先に、人間が人工知能に駆逐されてしまうのではないかという漠然とした不安感を持つ人が多いのかもしれない。そんな時、効率性や計算の通用しない人間臭い仕事というのは、逆に魅力的に見えるのだろうか。私はその中で働いて来たので、はっきり言ってよく分からないのである。
 言語芸術にしろ他の芸術にしろ、出発点は限りある存在としての人間の、生きている実感から始まるものではないかと思うので、いくらビッグデータで分析を重ねて巧妙に組み立てたところで、その切実さ(限界の裏返しとしての)が出発点に無いものから、今までに存在しなかった新鮮な芸術が生まれるとは考えにくいのである。
 こういう「ゴールを探し求めてさ迷い歩く」ような行為は、人工知能から見れば無意味と取られるのではないだろうか。でもその無意味さこそ、生身の人間にとって死活問題的に必要なのではないかと思う。
 この時代に、こんなに時代とかけ離れた職業に興味を持ってくださる人たちの心の中には、こういう生身の人間にとって必要なものが、出版という仕事にはまだ潜んでいるのではないかという期待が込められているのかもしれない。そしてそれは決して間違った期待ではない、と私は感じているのである。出版で働いて来た人間の自惚れだ、と言われればそれまでなのだが。

現状あれこれ

『フィンランド語トレーニングブック』(白水社)調べ完了。これはいずれ繰り返し読まなければいけない。フィンランド語を読めるようになるためには、この本の学習は必須だろうと思う。
 チェロキー語もとりあえず終えた。先にも書いたように、これは文字練習帳なのだけれども、CDが付いている。これもいずれ聴いてみようと思う。
 中国の少数民族の言語の学習が滞っているので気になっているが、もう少しすればそれを入れる余裕も出て来るだろう。何事も一気に、とは行かない。学習が回転すると、つい無理やり予定を詰め込み過ぎるきらいがあるので、ここは自分の年齢も考えて、あまり無理せずやって行くつもりである。
 校閲講座の準備も順調に進んでいる。もっとも1クール済ませた後なので、基本は固まっている。微調整だからそんなにあせらない。ちょっと絵を入れ替える。記述を少し変更して、新しい問題を作る(これが一番大変)。人前で話すことにも少しは慣れたけれど、やはり得意とは言えない。講演をし慣れた人は緊張などしないのだろうか。それとも毎回緊張し、それでも土壇場の度胸みたいなものが据わってくるのだろうか。おそらく後者なのではないだろうか。楽々できるようになるとは思わないほうがいいのだろう。努力はしなくてはならない、ということでしょうね。
 原書テキストを読む時間が少なくなっているのが、現在の悩みどころである。

徐々に過ぎて行く

 ずっと前に買った『CDエクスプレス・チベット語』の調べがやっと終わった。現代チベット語は『チベット語会話練習帳』というのをずいぶん昔に調べて、録音も聴いたのだが、今一つ文法的に納得しきれないものがあって、この本も勉強しようと思って始めたものだ。
しかし現代チベット語は手強い。まず、スペルと発音の乖離(かいり)が尋常でなく、ラサ方言の発音を調べるとなると簡単ではない。結局は辞書(中国で発行しているもの)で調べるしかないし、沢山読み書きし、聴き込んで「慣れ」で身に付けるしか方法がないように思う。このタイプの言語は厄介だ。それと、文末の語気詞とか語気表現が豊富で、そこに微妙な時制や相などのニュアンスが込められているので、これを覚えるのも一苦労である。一言で言って「難しい言語」だろう。
しかし時間がかかった調べ物が終わると(もっとも聴き込みはこれからだが)、精神衛生には大変良い。つかえていた他の学習も動く。この後いくつか、次々に調べが終わる物が続きそうで、それが少し楽しみである。やることが増えるばかりだったので、ちょっと楽にもなる。
娘の結婚式も済んだ。人生の他のことも徐々に過ぎて行く。安心はするが、少し淋しい感じもする。まあしかし、済んで行ってくれなければ困るのだ。また次の事にかかるとしよう。しばらくはまだ忙しいだろう。
プロフィール

Author:井上孝夫
多言語の学習・研究、多言語読書を長年続けています。著書に新潮新書『世界中の言語を楽しく学ぶ』『その日本語、ヨロシイですか?』あり。マンガ・イラストの別ブログ「スケッチ貯金箱」もやっています。

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