アラビア語のポップス

ナンシー・アジュラムというアラブの歌姫(世界的に有名らしい)の歌の歌詞を訳そうと思って調べてみた。
正直アラビア語は辞書を引くだけでも大変な言語なので(語根となる三つの子音を抽出できないと辞書が引けない)一苦労なのだが、その上にポップ・ミュージックとなると、正則アラビア語(フスハー)ではない現代語(多くはエジプトのカイロ方言と思われる)で書かれているので、普通のアラビア語辞典だけでは歯が立たない。私はエジプト方言―英語の辞書を持っているので助かっている。
とは言うものの、それだけでは解決できない問題もある。そこでネット上に何か良い辞書が無いか探してみたら、やはり英語との対照辞書で、古典語・エジプト方言・レバノン方言が調べられるサイトを発見した。こういう辞書サイトは重宝する。あらゆる辞書を用意できるわけもないので、今後はこういうものにも頼って行こうと思う。またその歌詞自体の翻訳(英語その他)も存在することがあるので、その翻訳の正確さは絶対ではないけれども一応の参考となる。
それでもまだ分からない所がある。しかしこういう経験も面白いし大事なことだと思う。
この作業の影響でナンシー・アジュラムに興味を持ったので最新のCDを1枚買った。最近では珍しいことである。新しいことを知るのは楽しい。
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遊びに夢中で

 しばらく更新をサボってしまった。というのも、ここのところいろいろな歌の歌詞を訳してみる、という遊びをしていて、それが楽しいのでついつい時間を取られてしまうのである。
 翻訳が好きなのだろう、と自分で思う。しかもいろいろな言語の歌詞、ということになると、作品が短く凝縮している上にバリエーションが多いので、多言語学習の応用としてはなかなか面白い遊びなのである。もちろん著作権のあるものはしかるべき手続きを経なければ公表はできないけれども、それなりに古い歌や民謡ならその点は大丈夫であろう。もっとも基本的にはプライベートな遊びなので、このブログで発表するというわけにはいかない。自分で訳したうえで音源を聴いてみるのは、なかなか良いものだと思う。言葉を味わう、という点では上等な遊びである。
 そんなわけでブログの方はおざなりになってしまいがちだ。もっともブログに波があるのはしようがないと思う。書きたいことが無いときに無理矢理書いても、同じことの焼き直しになりがちだし、総論に疲れた時は具体的な言語に触れる方がいい。ただそれは上手く伝えるのが難しいのだ。というわけで、気分的に当面は更新が不定期になりそうである。もちろん書くべきことが出てくれば、すぐに書くつもりである。自然な流れで行こうと思う。

外国語テキストの過剰な注釈

チェーザレ・パヴェーゼの『月と篝火』(La luna e i falò)の原文テキストを読んでいたら、それに付いている注があまりにうるさいので、少しイライラした。
 一々の表現の意味を簡潔に説明するだけならよいのだが、個々の表現にはこれこれの技巧が用いられているとか、こういう比喩にはこういう効果があるとか、別に知りたくもないうるさい解説が山盛りで、どこで注を読むのを切り上げるかに気を使うという、ちょっといただけない注釈になっている。
 よく見たら出版社はEinaudi scuolaとあるので、これはエイナウディ社の教育出版部門なのだろうか。つまりこのテキストは、学生が文学を勉強するためのものらしいと気が付いた。だからこんなに懇切丁寧というか過剰な説明が付いていたのだ、と納得した。
 しかしこんな教科書で教育されて文学が好きになるものだろうか。日本語の古典教育でもそうだが、最初から文章技術や文法の詳細な説明を聞かされたらうんざりして嫌いになるのがオチのような気がする。最初は意味が了解できる程度の説明で、とにかく作品が味読できることを第一に、良いものをとにかく読むということが肝心だと思うのだが。
 とにかくこの本は、注は適当に流して読んでいくことにする。外国語の本選びも意外と難しい。

なるべくシンプルに

 いろんな国の歌の歌詞を訳していたら、多言語学習の面白さを改めて感じられて新鮮だった。
 やはり歌と言葉は密接につながっている。ボブ・ディランが「歌の言葉は、歌われてこそのものだ」という趣旨の発言をしたそうだが、その通りなのだ。言葉を深く味わうには、文章よりも歌の方が適しているのかもしれない。
 左耳が悪いので、電車では右耳にだけイヤホンを入れている。左耳の方のイヤホンの線は切ってしまっている。しかしなぜか録音が左耳側だけの音声で録音されているものがあって、全く聞こえない。モノラル変換プラグを着けて聴くと音が小さくなる。やむをえず新たにイヤホンを買って左耳側を残して使う(それを右耳に入れて聴く)ことにした。無駄な出費である。こんな工夫はしなくて済むようにしたい。最近のスマホを始めとする電子機器に積極的になれないのも、そういう無駄な出費といたずらに時間を空費するのが厭だからである。ただインターネットの調べ物が外でもできるのは有難いから、どういう形でそれを行うか、決めかねている。社外で仕事をするようになるまでに、結論を出したいと思う。
なるべくシンプルにしたい。

『英語という選択』

『英語という選択』(嶋田珠巳・岩波書店)読了。
アイルランドの言語事情を、実際のフィールドワークにも基づいて考察している。
本来の母語ゲール語を英語によって侵食され、それでもアイルランド英語という独特の英語に母語の特徴を反映させているアイルランド人たちの言語意識や、言語の交替について思索を巡らしている。
最後の部分で、昨今の日本の小学校における英語教育について述べている部分が、「日本語が無くなるはずはない」という楽観的な観測に基づいているということに気付かせてくれて、ハッとするものがある。
早期の英語教育がもたらすものについて、もっと真剣に考えなければいけないだろう。また、中学校以降の英語教育における発音教育の未熟さなども、もっと論じられなければならない。早期教育なんて有害かもしれない。あとから正しい方法で身に付けさせること、そして母語以外の習得を「自然に楽に」身に付けたいなどという虫のいい考えはまちがっているのだ、という認めたくない真実をはっきりと示すこと。一般の人に実際に必要とされる英語はどのようなもので、それに無駄なく近づくにはどうしたらいいのか、という基本的なことを私たちはもっと考えなくてはならないのだ。
プロフィール

井上孝夫

Author:井上孝夫
多言語の学習・研究、多言語読書を長年続けています。著書に新潮新書『世界中の言語を楽しく学ぶ』『その日本語、ヨロシイですか?』あり。マンガ・イラストの別ブログ「スケッチ貯金箱」もやっています。

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