アナログな夢

昔買って、ある時家の本棚から溢れてしまったので会社のロッカーに避難させておいた、中国少数民族の文法シリーズを再び家に持ち帰った。まだ二十数言語手付かずで残っている。
一冊ずつは百頁台の、薄い小冊子なのだが、文法的にまとめるとなるとそれなりに手数が掛かる。しかしこれは、やらずばなるまい。すでに十数言語はまとめたと思うが、まだ先が長い。今後の目標としよう。現在、保安語というのを学習中。実際に使うことは決してないだろうが、もうそういうことはどうでもいい。
北米先住民族の言語は、まだほとんど手付かずと言ってよい。文法書も本屋で見たことはほとんどない。チェロキー語のものをAmazonで買ったが、単にチェロキー文字の練習帳みたいなものだった。手頃な文法書どころか、まともに文法書も無い言語がほとんどだろう。言語のパースペクティヴを広げるには必要なのだが。オーストラリアのアボリジニの言語についても同様である。アフリカの、話者十万人単位の言語でも、文法書を見たことが無いものがいくつも存在する。言語学習環境にも、また格差があるのである。

AI(人工知能)の翻訳文の質の向上が著しいそうである。研究者が、「英語の学習など不要になるかもしれない」と嬉しそうに言っていた。この人たちにとっては、外国語など邪魔物以外の何でもないのだろう。その言語で直接理解しなければ分からないニュアンスなど無価値だと思っているに違いない。AIを使って理解できるのはしょせん日本語の枠で理解できることのみである。同様に英語話者にとっては英語の枠、他の言語でも同じことである。つまりそれぞれが各言語の中に閉じこもったままコミュニケーションするわけである。それは真のコミュニケーションなのか? 商用や旅行の際はそれでよいだろう。現実の役にさえ立てばよいのだから。だが本当に相手と理解し合いたいと思った時にそれで足りるのだろうか? 足りる、と思っているのだろう。相手が急に怒った時など、それはAIが間違えたのだ、と弁明することになるのだろうが、その弁明もAIですることになるのか。
私はアナログな環境で育ったので、こういうことに対してはどうしても懐疑的になるのだ。でも、アナログで外国語を勉強せねばならなかった時代に育って幸いだったと思っている。外国語はその時代の方が、ずっと美しい光を放っていたように思うからである。その光を見て、夢を抱けたのは自分にとって大切なことであった。便利さは、夢を見ることを困難にさせるような気がする。
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『太平記』読了

岩波文庫の『太平記』全6巻を読み終わった。長かったが、面白かった。一番印象に残っているのはやはり有名な楠木正成(くすのきまさしげ)・正行(まさつら)父子の桜井の別れの場面である。
京へ攻め上って来る足利尊氏軍を正面から迎え討ったら必ず負けると考えた正成が、一旦天皇を都から避難させ、尊氏軍を京に閉じ込めて兵糧攻めにする作戦を進言するものの、それが帝位を軽んじる行動だと批判する諸卿の意見に押された天皇が認めなかったため、正成は死を覚悟して、桜井の宿でまだ十一歳の息子・正行に諭すのである。
「今生(こんじょう)にて汝(なんじ)が顔を見ん事、これを限りと思ふなり」
この世でお前の顔を見るのは、これが最後だと思う、という言葉を息子に伝える父の心情、そしてそれをかしこまって聞いている十一歳の息子。武士というのはこういう人たちだったのだ。
後に父親の遺骸を見た正行が、悲しみのあまり自害しようとすると、母が激しく諫(いさ)める。父が討ち死にしても、正行は一族を助け、折来たらば「今一度義兵を挙げ、朝敵を亡ぼして、君をも安泰になし奉り、父が遺恨をも散じ、孝行の道にも備へよとてこそ残し置きし身なるを」いつの間にか忘れ去って目の前の嘆きに心を奪われ、「行末を顧みず、父の恥を雪(すす)がず、われになほ愁(う)き目をみせんとする」情けない幼さよ、と責める。そして、どうしても自害すると言うのなら、「愁き目を重ねて見せんより、われを先(ま)づ殺せや」と言って悶え焦がれる。かろうじて正行は自害を思いとどまるのである。この激しさにも我々は驚くのである。
色々な意味で読んでよかったと思う。
さてその次に何を読もうか、と考えて選んだのが、やはり岩波文庫の『与話情浮名横櫛(よはなさけうきなのよこぐし)』である。「切られ与三(よさ)」の名で知られる歌舞伎世話狂言である。昔、春日八郎が『お富さん』という歌を流行らせたが、これもそれから材を取っている。といっても私は漠然としか知らないのでいい機会だと思ってこれを選んだ。残念ながら歌舞伎を見に行く習慣が無いので、台本を読んでその代わりにする。いずれ見る機会もあるかもしれない。
日本の古典も細々とだが読み続けようと思う。

コンスタントな日常

 先週はイレギュラーな仕事がたくさんあって、少し疲れてしまい、ブログ更新もままならなかった。語学の学習には、コンスタントな日常が大切だということが良く分かった。
 ここのところイタリア語会話のスクールには続けて出ているが、どうも言葉がつかえたり聴き損ねたりすることが多く、どうしたものかと考えている。なんというか反射神経が鈍っているような気がするのだ。もうちょっとイタリア語に割く時間を増やした方がいいのだろうか。作文をもう少しやった方がいいのかもしれない。なにより、生のイタリア語をもっと聴かなくてはいけないだろう。となると、時間の問題が悩ましい。インターネットを覗くときに、なるべくイタリアの放送なども聴くように心掛けよう。
 イタリア語だけは核となる外国語としてしっかりしたものを身に付けたいと思っているので、ちょっと他の外国語より配慮が必要なのだ。うーん、難しい。そのためにも先ず、コンスタントな日常が戻ってほしい。

悩みつつ

 今聴いているスワヒリ語と広東語の聴き直しが終了しそうなので、次の物を考える。
 ここのところ、以前一度聴いたものを再度聴き直す、という作業をしている。新しいものを聴くのは楽しいけれども、積み重ねという意味では「聴き直し」は大事なのでちょっとここで頑張りたい。次はネパール語とフィリピノ語(タガログ語)にしようと思う。ずいぶんご無沙汰している両言語だ。しかし他にもたくさんあるなあ。どこかで新しい物(ウズベク語とか)を挟みたいけれども。悩みどころである。
 読む練習も、少数言語の語学的なトレーニングの意味での読みと、メジャー言語の読書としての読みのバランスが難しい。単語学習はそろそろ絞ってみようかと思う。全部は出来ないからなあ。きっと、出来るうちはこんな風に悩み続けて続けるんだろうと、最近思うようになった。

文法ノート 最低限の礼儀

 ここのところ、文法ノートを書き換えたり、書き足したりする作業が続いて少々しんどい。文法ノート作成は、文法書に書かれた項目を、私自身の文法分類に沿って書き換える作業である。その分類に迷うことも多いし、一旦書いたものを「やはりこれではまずい」と、後になって書き直すということも往々にしてある。仕事の必要で変化の早見表や、接辞を音によって分類した「接辞グロッサリー」あるいは小詞の「小詞グロッサリー」を作るとなるとこれは手間がかかる。しかしそれが最も早道なのである。統一(完全には無理だが)された文法記述は後になって大変役立つし、グロッサリーは読解などに非常に有効である。
 これを作っても、もう役に立てる機会など無いではないかという気もする、正直。しかし本当の所、もう役に立てようなどという思惑はないのである。こうやってまとめる技術を確認しているという感じもするし、こういうふうにまとめることが私にとって最低限その言語を知る、ということなのだろうとも思う。「話す話さない」「読む読まない」のレベルまで行かなくとも、その言語に対する礼は尽くした、と思っておきたい。
プロフィール

井上孝夫

Author:井上孝夫
多言語の学習・研究、多言語読書を長年続けています。著書に新潮新書『世界中の言語を楽しく学ぶ』『その日本語、ヨロシイですか?』あり。マンガ・イラストの別ブログ「スケッチ貯金箱」もやっています。

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