作り忘れた文法ノート

 モンゴル語の記事を引き続き読む。当初より手強い感じだが、だんだん辞書の引き方のコツが掴めてきた。モンゴル語は膠着語だから辞書など容易に引けるだろうと普通は思うが、やってみるとそうは行かない。接辞による派生語が多く、それが辞書項目のどの語形のところで説明されているかが始めは分からなかったりする。また母音脱落や音の前後の交替(メタテーシス)もあるので、それを間違えると意味が取れなくなる。
大学書林のモンゴル語辞典(私は改定前の物を持っている)はなかなか良い辞書だけれども、やはり出ていない語彙もある。他に頼りになる辞典も無いので、あとは推測して見当をつける。少数言語(モンゴル語についてそう言うのはどうだろうとは思うが)の学習なんて、そんなものである。英語やフランス語、中国語などとはわけが違う。自分で辞書に補足していくくらいの気持ちでいないと、すぐに行き詰まる。私も、接辞表に新しい項目を書きこんだり、辞書にあらたな語義や新語を書き入れたりと、結構頭をひねりつつやるのである。昔の蘭学や、幕末に英語を勉強した人たちと変わらないのだ。自分ではこういう状態を「蘭学事始め状態」と呼んでいる。その状態にさえ達しない言語が実は殆どなのである。「何カ国語分かるんですか?」と気軽に訊いてくる人に、これは分かってもらえないだろうなあ。もっともフィールドワークで未知の言語を研究する言語学者に比べたら、ずっと楽なのだけれども。
私は文法を勉強する時は必ずノートを作る。ある一定の共通基準に則って作るようにしている(なかなか難しい事も多いが)。これを「文法ノート」とよんで、後々必要に応じてリファレンスする。大変重宝しているが、初めからこうやって勉強していたわけではなく、やっているうちに考えだしたものである。だからそれ以前に勉強した言語にそのノートは存在しなかった(教科書にメモしたりしていた)。後になって、遡ってノートづくりをしたのである。
ところがまだ作り忘れている言語があった。古典ギリシャ語である。先日、古典ギリシャ語のちょっとした文章を訳す必要が出てきて気付いたのである。今までは簡単なメモと、田中美知太郎『ギリシャ語入門』を参照して済ませて来た。だがやはりちょっと手間が掛かる。やはり自分用の文法ノートを作った方が良い。これから作ろうと思う。時間の節約のためにも、あった方が良い。古典ギリシャ語には時代や方言によってバリエーションが多いのだが、基本となるアッティカ方言を幹として固めて、あとは必要に応じて補足していけばよいだろう。なんで今までやらなかったのだろう。今からでも遅くはない、善は急げ、だ。
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無駄ではなかった?

 モンゴル語を少しはどうにかしようとして単語を覚えようとしたり、唯一の読み物であるチョイジャムツィン・オイドヴの『道』を繰り返し読んだりしたが、はかばかしい効果もないような気がしていた。困ったものだと思っていたが、新聞記事をプリントアウトして、辞書と首っ引きで読み始めたら、以前と比べて意外と分かる感じがした。
意外だった。語彙がはかばかしく増えたという実感はないから、言葉の繋がり方や呼吸というようなものが感じ取れてきているのかもしれない。どんな学習でもまるっきり無駄だということはないのかもしれない。もう少し読んでみないと分からないけれども、そう難しくない記事や、ウィキペディア等の解説も何とか読めるかもしれない。だとしたら嬉しい。
モンゴルという国は近いのに「見えない」国である。相撲や経済でちょっと話題になるくらい。あとは旅行物だとか。実感しにくい国である。それはやはり文字による日常的な情報が少ないということも一因かと思う。ほんの少しでも、それに付け足せたら楽しいような気がする。  私にとって「読む」ことは外国語学習の大きな目的である。文字はずっとそこに留まってくれるから、たどたどしい力でもそこから汲み取れるものがある。
とかく外国語学習ではその言葉をペラペラ喋ることをイメージしがちだが、実際日常会話に不便を覚えないレベル、というのは相当高いハードルである。日常会話ほど難しいものはない。あらゆる分野の話題とそれに必要な語彙と慣用表現、相手の感情を思いやった言い回し、当意即妙の返事、誤解を招かない表現。それらを瞬時に使いこなすなどという芸当は、1言語だけでも相当困難である。本当に「話せる」外国語は一生に1言語、才人でも2〜3言語(いや、これでも既に天才かもしれない。私などには想像できない)ではなかろうか。
だから凡人の私は、「読める」言語を増やすことに努めるのが分相応というものである。その端っこにモンゴル語が引っ掛かってくる可能性が出て来たなら喜ばしい。とはいうものの、まだ分からない。今はちょっと喜ぶだけにしておこう。糠喜びかもしれないが。

初心に帰る

 このところ色々な仕事が次々舞い込んできて、面白いけれど落ち着かない気分だった。ようやく一段落して、ブログの更新が滞っているのに気が付いた。まあ無理に書かなくてもいいようなものだが、やはり神経が新しい事に向いてしまうので、学習はとかくルーティーンワークになりがちだ。そうなると言語の事について思いを巡らす時間もなくなるから、ブログも怠りがちになるという道理である。
 ここのところマイナー言語を読解するという作業にはご無沙汰している。比較的メジャーな言語の読書に偏りがちだった。次の学習の入れ替えには、その点も考慮してみようかと思う。細切れでもいいから、すこしずつ違う言語に再度触れる。それも多言語学習の醍醐味であったはずだ。初心に帰ってみようかという気分になっている。

散々(?)な週

 先週、ベッドから転落して顔を打って怪我をした。幸い打ちどころが良かったので傷は大したことがなかったとはいうものの、散々な一週間だった。その上Windowsのバージョン更新を行ったらパソコンの具合が悪くなり、電器店へ持って行く羽目に。
 こういう時は、大きな怪我にならなかった幸運と、パソコンの調子が戻った幸運をまず感謝すべきなのだろう。悪い事ばかり数え上げてボヤくより、前向きだろうと思う。
 パヴェーゼの『月と篝火』原書講読は、半分を過ぎた(原書を二分割しているので、ちょうど入れ替えになる)。読み進めているうちに徐々に引き込まれる。選んで正解だったか。
 ハンガリー語と広東語の聴き込みも、1日1課分しか前に進まない((ある程度記憶しようと思えば仕方がない)ので遅々たるものである。でももう焦る気持ちは無い。一日一日楽しんでやろう。
 今週は講座があるが、淡々と物事の進む週にしたい。

福井出張終わる

 先週福井市に行き、文章講座の一環として校閲についてお話しして来た。
 皆さん熱心に聴いて下さったので、出張した甲斐があった。
 福井は空間をゆったりと取った、とてもくつろげる街だった。また田園の中に突如現れる図書館は大変充実した施設であって、少し羨ましい気がした。
 また、偶然知ったことではあるが、校閲講座のマスコットキャラクターであるレッサーパンダは、なんと福井の隣の市、鯖江市のマスコットキャラクターでもあったのだ。この偶然は先方にも大変驚きであったらしく、その話で相当盛り上がった。おみやげに校閲講座特製、レッサーパンダのイラスト入りクリアファイルを出席の皆様に進呈させていただいた。これはゲラの体裁を模した底面と、赤字や鉛筆疑問の印刷された上面を合わせると、校閲済みのゲラの状態に見えるという、ちょっと手の込んだ造りになっている。喜んでいただけたら幸いである。
 さて出張も済んだし、別件で依頼されていた校閲関連の原稿も脱稿したので、久しぶりにのんびりとする。本当は、進んでいない語学をここらでみっちりとやるべきだろうが、如何せんもう歳なので無理をするのはやめておく。淡々と日常の務めを果たすことにする。
プロフィール

井上孝夫

Author:井上孝夫
多言語の学習・研究、多言語読書を長年続けています。著書に新潮新書『世界中の言語を楽しく学ぶ』『その日本語、ヨロシイですか?』あり。マンガ・イラストの別ブログ「スケッチ貯金箱」もやっています。

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