語学は不要になるのか?

 大学教育で第二外国語を選択する必要がなくなっているそうだ。もうだいぶ前に聞いた話だから、当たり前になっているのかもしれない。どのくらいの範囲でそうなっているのかも知らない。しかし「英語さえわかればOK。その他の言語など学習不要」という傾向は全般に広がっているようである。
 そこへ人工知能の登場である。ますます楽になりそうだ。英語だって勉強する必要はなくなるかもしれない。世の中の期待は高まっているように思える。今時語学なんかやっている奴は先見性の無い愚か者だ、と思いたい、という無言の願望が感じられるようだ。
 よく指摘される翻訳の「精度」は、いずれある程度実用的なレベルまで上がるだろう。ディープ・ラーニングという手法の原理を聞けば、そうなるだろうという予測は立つ。
 残る問題は翻訳の正誤をどうやって判断するのかという問題と、文学的表現その他、人間的要素が多分に絡んで来る文章をどれだけ訳せるのかという問題である。
 ここまでは一般に認識されている事柄であるが、さらに問題がある。
 結果として日本語に訳されたものを読むだけで済むとなると、その言語でなければ感じ取れないニュアンスや意味は無視する、という結果になる。論理だけ通じればよいということである。ここに問題は無いのであろうか。文学などは、作者の書いた言葉を直接味わうということが大切な領域であるはずだが、人工知能に代わりに「味わってもらう」わけにはいかないのだから、どこまで深い理解ができるかどうか、心許ない。
 結果として、他民族の心情や考え方に対する深い理解が得られなくなる、ということになりはしないか。言語を学ぶのは、他者をより理解するためでもあるのだが、そこの努力は不要、実用さえ満たされれば楽なほうが良い、という状況が続いた結末はどういうことになるのか、少し危惧している。
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予定外

 シェイクスピアの次の作品を選ぼうと思って丸善に行った。
 『リア王』(King Lear)にしようと思っていたら、適当な判型と軽さの本が無い。当てが外れたと思ってしばし思案。結局いい感じの大きさの『オセロ』(Othello)にした。こういうのはきっと縁というものだろうと最近は思う。神様が、「そっちではなく、こっちにしろ」と命じたわけだ。素直に従おう。しかしシェイクスピア作品も結構な数がある。全部を読むのは無理だろう(私には)。作品が気に入っても作家研究という方向には行きたくないので(そうなると窮屈だ)、選ぶ作品は重要なのだけれど、自分が考えていた通りにならないほうが意外と良い出会いがあるようにも思っている。予定外のことも人生のうち、である。

 復習中の広東語を聴き直してみると、あまりにも覚えていないのにびっくりする。前回は聞き流していたのだろう。ノルマ達成みたいに学習を回転させていた頃のものには、案外こんな状態のものもあるだろうと思う。こんどはちょっとのんびりと復習するつもりだ。

最近の学習記録

 最近の学習について書いていなかったので、久しぶりに書いてみよう。
 聴き直しはラトヴィア語→広東語という流れと、Assimilのハンガリーコースの初めての聴き込み。
 単語学習はトルコ語。昔買ったトルコ語の短編の翻訳などもいずれしてみたいので、そのための準備。
 カンボジア語とベンガル語の復習兼聴き込み用の調べ。『ロシア語リアルフレーズBOOK』(研究社)の調べ。この本はロシア語口語の活きのいい表現が満載。
 アンデルセンの作品(デンマーク王立図書館のサイトからプリントアウト)の講読(電車内での読解なので、色々な意味で大変)。
チェーザレ・パヴェーゼの『月と篝火』の講読の続き。
 その他の学習も以前からの続きで、そう大きな動きは無し。今までやっていない言語の文法もやりたいが、もうあまり無理は利かないし、意図的にセーブしている。
 こう列挙すると、セーブしているように見えないかもしれないが、以前よりは抑制しているつもり。

高山病やら校閲講座やら

 夏休みに立山・黒部へ旅行をしたらなんと高山病にかかってしまい、嘔吐したりして大変だった。ちょっと体調も崩してしまい、ブログの更新も滞ってしまった。帰ったすぐ後に会社の校閲講座もあって余裕がなかったのである。
 講座も満1周年で、7月からまた新しいクールに入った。この講座の最後に、「世界の歌を味わおう」というコーナーを設けて、自分でチョイスした世界の歌を聴いてもらっている。原歌詞とその翻訳を見て聴いてもらう。もちろんきちんと必要な申請はしている。というわけで、そのための翻訳(これ自体はとても面白い)をしていると、多言語学習をしてきてよかったなと思う。歌一つだけ取っても、言葉の意味が分かるのと分からないのとでは大違いである。そしてたとえゆっくりとであっても、その歌詞を直接了解できた時の味わいというものは、機械翻訳やAIでは肩代わりの利かないものである。その喜びを少しでも味わってもらえれば、言葉というものに対する認識を深める一助となってくれないか、という期待がある。校閲は日本語の枝葉末節的な断片的知識の集積だけで出来るものではない。言語というものにたいする自分なりの洞察が無いと、適切な疑問提出も出来ないのではないかと思う。
 あとどれくらい続けることになるか自分でも分からないが、テキストにイラスト等を入れて分かりやすく楽しいものにするなど、自分で出来る最大限の努力はしているつもりである。人前で話すなど決して得意なことではないが、縁あって任されたことなので暫くは頑張ってみようと思う。

アラビア語のポップス

ナンシー・アジュラムというアラブの歌姫(世界的に有名らしい)の歌の歌詞を訳そうと思って調べてみた。
正直アラビア語は辞書を引くだけでも大変な言語なので(語根となる三つの子音を抽出できないと辞書が引けない)一苦労なのだが、その上にポップ・ミュージックとなると、正則アラビア語(フスハー)ではない現代語(多くはエジプトのカイロ方言と思われる)で書かれているので、普通のアラビア語辞典だけでは歯が立たない。私はエジプト方言―英語の辞書を持っているので助かっている。
とは言うものの、それだけでは解決できない問題もある。そこでネット上に何か良い辞書が無いか探してみたら、やはり英語との対照辞書で、古典語・エジプト方言・レバノン方言が調べられるサイトを発見した。こういう辞書サイトは重宝する。あらゆる辞書を用意できるわけもないので、今後はこういうものにも頼って行こうと思う。またその歌詞自体の翻訳(英語その他)も存在することがあるので、その翻訳の正確さは絶対ではないけれども一応の参考となる。
それでもまだ分からない所がある。しかしこういう経験も面白いし大事なことだと思う。
この作業の影響でナンシー・アジュラムに興味を持ったので最新のCDを1枚買った。最近では珍しいことである。新しいことを知るのは楽しい。
プロフィール

井上孝夫

Author:井上孝夫
多言語の学習・研究、多言語読書を長年続けています。著書に新潮新書『世界中の言語を楽しく学ぶ』『その日本語、ヨロシイですか?』あり。マンガ・イラストの別ブログ「スケッチ貯金箱」もやっています。

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