とにかく試す

 スペイン語の翻訳終了。今回はちょっと大変だった。詳細は控えるが、翻訳というものの難しさを十分味わった。
 しかし同時に翻訳の面白さも感じた。日本語に直すことで、文書の意味が明瞭になってくるということが快い。背景も調べることで、全く知らなかった状況なども見えてくる。体力的には大変なのだけれども、時にこういうものがあるのは悪くない、と思う。
 モンゴル語の単語帳をずっと電車で眺めている(マーキングしながら)。こんなやり方は受験の時の単語帳暗記みたいなもので、役には立たないというのが今の常識だろうと思うけれど、あえてやっている。本当にそうなのか確かめてみようというのもあるけれど、モンゴル語の学習教材があまりにも少なく、またモンゴル語の語彙が他言語との共通項があまりにも少ないということもあって、試しにやっているのである。これをやったあとで、ネット上の新聞記事などを読もうとした時に、どれくらい助けになるものか、一種の実験でもある。語学の学習法も流行りすたりがあって、本当に何が有効なのかは実際の所分からない。とにかく色々試してみるしかない。能書きばかり言っているわけにもいかない。とにかく馬鹿げているように見えてもやってみよう、というところである。
 学習はいつも手探りである。それが逆に面白いのだ。
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今回は空振り

 イスラエルの野球代表がWBCの予選リーグで3連勝、驚きを以て迎えられているが、何でもイスラエルでは野球は不人気で、プロリーグも1年で潰れたということだ。何か今回の快進撃でイスラエルでの受け止め方に変わりがあるのだろうかと、ネットのイスラエル紙を見ると、野球の記事があったのでプリントアウトし、そのヘブライ語記事を読もうとした。
 現代ヘブライ語は辞書に載っている表記とは若干異なるクティーブ・マレーという表記法で記されることが多く、ただでさえ複雑な文法に加えて、このスペリングの規則を加味して読まなければいけない。もう読解というより解読に近い。ましてや今回は野球記事なので、選手名という固有名詞が多く、これは、別途選手名をリサーチしておかないと、一般語彙のつもりで必死で調べても人名だったと後で分かりガックリする。野球用語もヘブライ語でどう言うのかは辞書に出ておらず、見当をつける必要がある。
 途中まで読んでも試合展開の説明ばかりで埒が明かないので、飛ばして終わりの方のパラグラフに移ると、もうそこは他チームのゲームの結果の説明だった。これは配信されたニュースをなぞっているだけなのだろうと思うと急に読む気が失せた。どうやらイスラエル国民の関心を引くところまではまだ行っていないらしい。今後の展開次第では分からないが。
 というわけで今回は空振りに終わってしまい、ちょっと気落ちした。しかしネットで一つ良い辞書サイトを発見したので、これだけが今回の収穫であった。こんなこともままある。そうそう合理的に進まないのも多言語学習の常である。

アラビア語、ミャンマー語、ウズベク語その他もろもろ

アラビア語レバノン方言を聴き始めたら、あまりにも録音部分が少ないので拍子抜けした。いずれにせよ、覚えようとして聴いているのではなく、感触を確かめるだけなのでこれでも充分なのだが。すぐに終わりそうなので、次はチュニジア方言にしようと思う。その後はリンガフォンのアルジェリア方言(これはかなりボリュームがある)という順番である。それにしてもかつてのリンガフォンはいい仕事をしていたな、と思う。
ミャンマー語(ビルマ語、と呼びたいが最近はミャンマー語というのが一般的になりつつある)の会話本の調べが終了。その代わりにウズベク語の会話本の調べを始める。この本はスペルのミスが多いという指摘がネット上にあったが、語学本のミスプリントには慣れているから、修正しながらやって行けばいいだろう。文法は一応済ませている。辞書の新しいのを一冊注文した。チュルク語派に属する言語だから、トルコ語とさほど離れていない。どうにかなるだろう。
スペイン語翻訳の新たな仕事を貰ったので、そちらも進める。相変わらず暇が無い。絵も描きたいのだけれど、そう自由に行かないのが悩みである。

新鮮な認識

 マラガシ語を調べていたら、面白い表現を見つけた。
mamaky teny(ママキ・テニ、「読む」)という表現なのだが、mamakyが「壊す」、tenyが「言葉」で、英語に直すならばbreak wordsとでもなるだろうか。「言葉を壊す」とは、「書かれた言葉を噛み砕く」といったニュアンスであろうかと思う。こういう表現を見ると、ハッとする。日本語や他の言語ではしない発想だろう。確かに、読むという行為にはこういう感覚があるな、と思うが、この表現を知るまでは意識したことがなかった。
こういうところが、多言語を学習する面白さの一つである。外界に対するいろいろな認識の仕方を知ること、それは新鮮でもあり、自らの認識の壁に風穴をあけるものでもある。
以前、タイ語で「蝶」のことをผีเสือ[phĭi sɯ̂a](phĭi=お化け、 sɯ̂a=服)と言い、これは「服のお化け」ということになるのだ、ということを知って、美しい柄の入った服がお化けとなって飛んでいるというイメージに感嘆したことを思い出した。こういう表現に逢うと、確かに物事への認識が変わる気がする。
言語を学ぶ、というのはただ実用に供するためだけではない、という感を深くするものである。

辞書の価値判断

 バリ語の会話集の調べをしていて、以前購入したバリ語―英語辞典を使っているのだが、この辞書のアルファベット表記はバリ文字(今は殆ど使われていないらしい)を文字転写したものらしく、会話集のアルファベット表記と若干食い違う。たとえば母音の前には基本的にhが表記される。最初は少し戸惑うが、慣れればそれほどでもない。しかしバリ語にはその内部に、階層による語彙や表現の違いがあって(日本語の敬語みたいなものを想像してもらえばそう遠くはない)、これをマスターするのはバリ社会に暮らさないと無理だろうと思う。インドネシア語からの借用も多そうである。バリ研究者以外にとっては、むしろ言語のヴァリエーションを知るための良いサンプル、と捉えた方が良いように思う。
 こんな風に少数言語の辞書を始めて使って見ると、一々の辞書の良し悪しや有用性は、使って見なければ分からないものだということに改めて気づかされる。買ってあるからOK、と思っていては駄目なのである。新しい辞書を買ったからと言って古い辞書がそう簡単に捨てられないのは、この価値判断が難しいからということもある。辞書整理は難しい。大きな書庫があれば、捨てずに全部持っていたいのだが。
プロフィール

Author:井上孝夫
多言語の学習・研究、多言語読書を長年続けています。著書に新潮新書『世界中の言語を楽しく学ぶ』『その日本語、ヨロシイですか?』あり。マンガ・イラストの別ブログ「スケッチ貯金箱」もやっています。

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